この割れ切った世界の片隅で、を読んで思ったこと。
自分が見てきた狭い世界の常識からしか人間は物事を判断できません。これは紛れもない事実です。大切なことは、どれだけ世界を見ようとも、「自分は視野が広い」「自分は物事が適切に捉えられている」なんて思わないこと。自分の見ている世界を疑い、謙虚になること。常に相手の背景を受け入れようとすること。自分が生んだ成果はすべて自分の努力のお陰だなんて思わないこと。
これらを胸に、どうか声をあげられない人の声を、聴いてください。
不平等だなと感じた
ぼくも、レベルの程度はあれど、同じような「分断」の経験をしたことがあります。
大学に入ってはじめて「価値観の違い」というものを知ることになったし、人と論理的に議論するということを学んだし、夢に向かって一歩踏み出すための環境が整っていた人(親の年収が高い、とか)がいることも知りました。これ、めちゃくちゃ大事なことなのに、なんで高校生の時までに教えてくれなかったんだろうって、一時的に親を恨んだこともありました。
その反動で、めちゃくちゃアクティブな意識高い系男子、あるいは、経験不足からくる自信のなさを埋めるように活発に動き回る大学生が出来上がったわけですが、20歳になるまではめちゃくちゃ負のオーラを纏っていて、不満を爆発させながら、周りを傷つけたりしながらとにかく動き回っていた気がします。(このプロセスを通して少しずつ大人になっていった気がしています、ほんとに多くの友人や家族に迷惑をかけました。)
機会の不平等について、自分の生まれ育った環境と向き合い、社会構造に対する問題意識が高まっていったのがこの頃。
振り返れば、高校生当時から違和感を感じていたような気もしています。
高校生当時の夢は、海外で活躍する人になること。左官職人とか、植木職人とか、地雷撤去の人とか、テレビの特番の影響で、職人さんに憧れていた頃もあるし、大学の進学先だって、国連職員になる目的のために選びました。
校内で青年海外協力隊として活動した方のセミナーが開催されることを職員室前の掲示板で知ったぼくは、その場ですぐに申し込んで当日を楽しみにしていたんだけど、蓋を開けてみると、参加したのは学校の先生と、学生は自分ひとりだった。みたいな感じの環境だったので、積極的にそんな夢を発信しまくってはいたけど、高校生の時は、周りに共感してくれるような友人はあまりいなかった気がしています。
(人とのコミュニケーションがまともにできていなかったはずだから、問題はそれだけじゃないとは思うのだけど。)(よくケンカしていた気がするし、とにかく荒れていた。殴り合いとかはないけど。)(ちなみに、まともな人付き合いができてなかったなと気付くのは26歳くらい。)
身の回りの環境に対する違和感の正体に気が付けたのは、他のコミュニティと比較ができるようになってから。つまり、大学進学後の友人たちとの出会いがあったからでした。
違う世界があることを、いつ知るか
何気なく過ごしている身の回りの環境が「普通」だと、ぼくたちは認識していますが、違うコミュニティに所属してみたり、海外の異文化に触れてみたり、そうした別の環境を経験をすることではじめて、目の前で起きている事象を「相対化・一般化」して捉えることができ、「普通・常識」が「普通・常識」でないと気がつけるようになるのだと思っています。
ぼくは大学進学時点でそれをはじめて経験したのですが(高校生までにこの経験ができなかった不満についてを冒頭で書きました)、シェアした「この割れ切った世界の片隅で」を書いた山邊鈴さんは、ぼくよりもっと若いうちから、そういう「分断」の経験というか、自分とは違う世界の人たちとの接点を持ったことによって、強烈な問題意識と向き合っていたわけです。(WEEKLY OCHIAIに出演していた時の話し方を見ても、そんな自分自身の置かれたリアルと向き合いながら乗り越えてきたのだろうなと、よくわかります。)
少数派の声を届けるために
不遇な環境に置かれているマイノリティの人たちと話していると、自分や他者と向き合った経験値から来る説得力というか、自分の人生に対する力強い意思を感じることが多くて、セクシャルマイノリティの人たちからいろいろ話を聞く機会があったときにも、それを感じたのですが、
今回の記事は、こうしたマイノリティとしてのひとりの声が全国に共有されて、noteで2万いいねつくくらい共感されていて、社会として抱えていた潜在的な問題を可視化できたという意味で、彼女の勇気あるカミングアウトの価値は非常に高いと思いました。
そういう小さな声を持っている人たちの方が社会全体を見たときには多くて、でも、偉い人たちの「普通・常識」で世の中の構造は作られている。そんな「分断」が起きていることに対しての問題提起の文章だったわけです。
自分が見てきた狭い世界の常識からしか人間は物事を判断できません。これは紛れもない事実です。大切なことは、どれだけ世界を見ようとも、「自分は視野が広い」「自分は物事が適切に捉えられている」なんて思わないこと。自分の見ている世界を疑い、謙虚になること。常に相手の背景を受け入れようとすること。自分が生んだ成果はすべて自分の努力のお陰だなんて思わないこと。
これらを胸に、どうか声をあげられない人の声を、聴いてください。
冒頭でシェアしたこの文章に、彼女のメッセージは込められていると思います。ぜひ全文を読んでみてください。
最後に、自分の取り組みについて
こうした「機会の不平等」については、先ほど書いた通り19歳の頃くらいからずっと問題意識として抱えていて、ぼくが個人的に価値を感じている「人の持つクリエイティビティ・哲学・個性」を奪うものとして認識していました。
だからこそ「海外の貧困・教育格差」とか「災害支援」とか「まちおこし」とか、学生の頃からそういうものに積極的にアプローチしていました。しばらくその後は仕事仕事でなかなか活動ができていませんでしたが、現在は改めて「教育」について考えるようになりました。
会社組織における教育体制の整備であったり、身につけておくべき考え方・人としてのあり方などを学ぶことのできる環境づくりなどに関しては、直近の目の前の課題として取り組んでいるのですが、もう少し先のビジョンが少しずつ明確になってきたので、簡単に書いておこうと思います。
まとめると、
STEAM教育、リベラルアーツなど、日本の教育体制における「アート」の重要性が高まっていく背景の中で、映画や漫画、文学・小説など、ストーリーに触れることで人生のサンプルを集め、人生設計上の選択肢を増やすこと。また、芸術やブランド、その他カルチャーなどに触れ、感性を養い、美意識を高めること。これらを身につけ、社会で活躍できる人材になること、あるいは、日常をより豊かに、感動体験の多い人生を送ることのできる人が増えるような、そんなビジョンをもった教育環境を提供すること
みたいなことを考えています。
そんなビジョンの元で展開している、あるいは展開していこうと考えているのが、映画→アウトプット→自己分析→フィードバックを行うゼミイベントの開催・書籍制作、漫画×人生戦略のセミナーイベントの開催・コンテンツ制作、「書」を通した美意識の向上・感性を高めるイベント・コンテンツ制作、など。
感動体験の多い人生にするために、自分自身の感性を高めまくること。そのために、感性を高められる自分自身の環境設定をすること。その方法の一つとして、周りに面白い人たちがたくさんいる状況をいかに作るかというミッションを掲げながら、個人のエゴとして活動を展開していますし、それが巡り巡って、全国の「分断」されたひとたちの環境として存在できれば幸せなことだなと思いながら、楽しんでやっているところです。
もっともっとこの切り口で活動を多く展開して、多面的な活動ができる体制を作っていきたいと考えていますので、今はトータル15人くらいであれこれ探り探りやっているところですが。興味のある方はぜひ直接ご連絡くださいませ。
一緒におもしろい社会にしていきましょう。