お金を受け取る
「どうして無償では提供できるのに、お金を受け取ることはできないの?」
松村亜里先生のコンサルを受けた。
問いはシンプルだ。
母屋で、民泊をしたい。
結婚する前から、おかしなことに(笑)夫の実家があるこの場所が好きだった。いわゆる限界集落だ。
神奈川から秋田に嫁に来たというだけでびっくりされるのだが、なんでこんな豊かなところに住みたがらないの? と逆に聞きたい。
100坪を超える家だが、田舎ではそれが普通だ。別に豪邸でも何でもない、代々続いた農民の家だ。その隣に、新居を構えて敷地内同居をして5年半経つ。
一級河川が家の前を流れ、田畑に囲まれたこの村は、ただただ美しい。
その客観的な美しさに気づいているのはこの村では自分くらいだと自負しているけど、この村の人にとって当たり前すぎて気が付かないことも、きっと外から来た人にはその価値がわかるはずだ。
嫁に来た頃、となりの畑のばーさんに話しかけたのを思い出す。
この村は別荘地みたいだと思いますよ。
そうしたら、
「おらがたじっとここさいるがらわがらねな~」と笑っていたっけな。
でも、とても嬉しそうだった。本当は誰よりもその美しさを知っていて自分たちだけのものにしているのが、ずっと代々住んでいる人たちだ。
100年後もこの田畑広がる村があったなら、ほんとうに価値のある風景だと思う。
馬で田を起こし、手で田植えをしてきた時代の延長線上に、蔵があり、小屋に農機具があり、今はクボタのトラクターがある。畑の合間に山仕事があり、山菜が食卓に並び春を感じる。雄物川の恵を受け、モクズガニの味噌焼きで秋を感じる。代々受け継いできたこの土地の生き方の先に、今の生活があることを肌で感じられるからだ。
母家は、築40年くらい。まだ古民家ってほどではない。いつの時代の話?って思うけど、自分の山から切り出した木材を使っているらしい。ひ孫が大人になる頃に受け継げるようにと、いまだにせっせと木を植えるジジババが現役だ。
母屋で民泊ができれば、埋もれた価値を採掘できるんじゃないかな。漠然と、ずーっとそう思っている。
でもさ、まだ住んでる人がいるから・・・。
古い家だけど、茅葺き屋根とかじゃないし、一棟貸しはまだ出来ないし、タダなら泊まるけどお金払ってまで泊まる人はいないんじゃないかな・・・。今は、外回りもきれいだけど、それは90歳の義祖父が毎日手入れしているからであって、永遠に続くものではないだろう。
なにか、こう、諦めのような薄い雲がまとわりつく。
「タダならできるけど、お金を受け取るとできないってなんでかな?」
と、また亜里先生。
漠然と無理だと思っていたところを言葉にされると堪える。
コロナ前は、学生時代に出会った友達をはじめ、カウチサーフィンや、ホストファミリーとして留学生や旅人を受け入れてきた。無償だったけど、いい出会いをたくさんした。イギリスのジャズ好きなフリーター、台湾の絵描きの女の子、1週間居候していったフランス人留学生、インドの官僚3人、フランスの画家、ケベックの元シェフ、モンゴルの友人・・・。
タダだから喜んでくれていたのかな?
おもてなしに喜んでくれていたのかな?
反応は良かった、みんな今でも付き合いのある友人となった。一晩泊めただけなのに。
そう、決して金額が理由ではないことは明らかだった。
「お金を受け取らないと、泊まる人にも失礼だよね」
ご飯用意したり色々するわけでしょ、いろいろしてもらったのにタダで泊まるなんて、申し訳なくてできないよね。
そんな言い方だったかしら、亜里先生は言った。
ちょっとビックリした。
その考えはなかった。
いや、本で読んだことあるけれど、それを自分のパターンにあてはめたことがなかった。
お友達に、空港近いから泊まりに来てね~!!!
そういっても本当に来てくれたのは一握り。
なるほど。いつでもよくて、タダなら、よし行くぞって決めるチャンスが無いのだ。自己決定理論だ、お金を払ったときに、心を決める。その決定によって豊かさが循環して、みんながハッピーになる!
私が逆の立場だったら、迷惑かけるだろうから・・・という気持ちが先にきて、行けるわけがない。
泊まっていってもらうことが、いくらこちらの喜びだとしても、こちらが受け取らなければ循環は生まれないのだ。
本を読んでも、コーチングを学んでみても、自分の中で流れを止めているものに気づけていなかった・・・
頭ではわかっていても、受け取るってなかなか難しい。
(でも、そんな自分も責めない、責めない。)
お金を受け取れないということは、過小評価しているということ。
母屋で民泊したい、と頭で考えながら、この村は美しい、と口では言いながら、
でもやっぱりそんな価値ないよね。
って心の深いところで思っていたんだ。
わー、気づけて良かったぁ。
美しいと言いながらその価値を過小評価する自分の中の矛盾。
払ってくれる人なんていないんじゃないかという信頼感の欠如。
心の底からつながっていくためのツールとしてお金を扱えたらどんなに良いか。空き家になる未来しかない古い田舎の家に、生きたお金が巡るのを想像した。
うん、明るい。
いつのまにか陽が差す。
描きたい夢を描いていい。
私がそうやって生きることが変化を生み出すのか。
もうちょっと踏み出してみようかな。
10年後じゃなくて、今やってみようかな。
そう思えた、たった10分が生んだ変化。
来年の目標が決まった!
2023年は、お金を受け取って泊めることを実行してみよう!
やってみたいと思っていることにブロックする理由はどこにもない。私が私にオッケーって言えたら、それでいい。流れはまた生まれるはず。
自分の周りのリソース全てに感謝してちょっとずつ前に進もう。
感謝。