あの日から三十年

こんにちは!陽子絵画制作室です。今日で阪神淡路大震災から三十年が経ちました。
地震当日の朝の思い出をお伝えします。
当時神戸の実家2階で寝ていた早朝、突然少しの揺れから揺れがどんどん大きくなって家が壊れてきたので「助けて!」と叫ぶことしかできませんでした。しばらくして揺れが収まり立ち上がると、もうもうとした砂煙の向こうに明かりが見えました。斜め向かいのワンルームマンションの階段の明かりでした。足元を見ると屋根瓦が見えました。屋根から飛び降りるのか?と思いよく見ると、屋根の端が道路についていました。そのまま屋根瓦の上を歩いて道路に出ることが出来ました。当時は一階に母がいて、弟は下宿に、父は休みで単身赴任先から帰ってきていましたが、地震の前に家から単身赴任先へ向かっていました。道路から見ると、うちの家だけ道路に雪崩れるように崩れているようでした。1階玄関に行くと、ゆがんだ戸口の引き戸が開いていました。母を呼ぶと返事が聞こえたのでホッとしました。暗くてよく見えないと言いながら、声を頼りに無事に外に出てきました。そのまま祖父母と伯父伯母が住む隣の3階建てのビルに行って祖父母の住む1階玄関のベルを押したり呼んだりしましたが、建物は壊れていませんでしたが聞こえないようで返事がありませんでした。2階の伯父伯母も同様でしたが、同じ階のワンルームマンションの女性が出てきて上着やゴム草履を貸してくれました。私と母とその女性は、まだ地震が来るかもしれないので公園に逃げよう!と言うことで近所の公園に行きました。途中で他の家やビルの1階も壊れていたり、ガス臭かったりして、壊れたのはうちの家だけではなかったことが分かりました。公園にはすでに多くの人々が集まってきていました。しばらくして明るくなると近所の方々も来られていることが分かりました。どれだけの地震がどれだけの範囲で起こったのか分からない状態でしたが、ともかく一度家に戻ってみようということで戻ってみると、隣から出てきた祖母と伯父に「生きとったんか!」と驚かれ喜ばれました。家は壊れましたがケガもなく命が助かったことに奇跡を感じました。
その後荷物を引き出したり父の会社の社宅のある石切に避難したり、当時数日に一度栄養点滴を受けて細々と食事をしていた祖父が点滴を受けられなくなって衰弱して1ヶ月後に亡くなったりしました。近所で直接地震で亡くなった方々も多くおられましたが、祖父のように通常の治療が受けられなくなって早く亡くなった方々もおられたと思います。
あの時助かってその後の人生を生きることができ今日があることを思うと支えてくれた多くの方々に感謝するばかりです。読んでいただきありがとうございました。

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