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時を超え、三島由紀夫に泣かされる
「絶対に好きだよ」。コロナの自粛に入る前の3月に、そう数名から薦められていた作品『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』。やっと、昨日、観ることができた。
多数の名作を残しつつも(『潮騒』『仮面の告白』『夏子の冒険』…数冊しか読んだことがない)、右翼で、筋肉を鍛えていて、最後は自決した作家。正直言って、私の三島に対しての印象は恥ずかしながら、それくらいであった。
結論から書くなら、最後、気づけば落涙していた。
三島は、全共闘1000人が待ち構える駒場キャンパス900号室でのシンポジウムに臨んだ。一人の右翼が1000人の左翼(この場合は、敵対している過激派の学生)の前で登壇する、と言う図式である。言葉の異種格闘技のようなものが繰り広げられるのかと思いきや(当時、会場にきている学生の一部にはそれを期待していたような空気はあるし、緊迫感はあるのだが)、まったく違った。トレイラー↓では伝わってこなかった雰囲気が興味深い。
繰り広げられるのは「対決」ではなく、「対話」である。途中、頭が良すぎる人たちの言葉のラリーについていけなくなり、例えるなら藤井聡太棋聖のさす将棋くらいに置いてけぼりをくらうのであるが、三島と東大生は真剣ながらに、終始、何とも楽しそうなのである。
三島を闘争本能の塊のような人だと思っていただけに、本当に驚いた。
大スター三島を前に、前のめりすぎたり、いきがったり、やや興奮ぎみだったりする東大生たち。けれど、三島は絶対に揚げ足を取ったり、話を遮ったり、馬鹿にしたりする態度をとらない。とにもかくにも「話を聞く」。「傾聴」という言葉が的確かと思う。そして、ユーモアを交えながら、皆にできるだけわかりやすいように、自論を繰り広げる。彼の態度によっては、現場は荒れ狂っただろうから、三島の傾聴力、対話力には恐れ入る。
結果的にシンポジウムは、右も左も「反米愛国」は共通しており(それはそれで、当時、両者が手を組んでしまっていたらどうなっていただろうか、とちょっとヒヤリとしつつも)、自分たちの共通の敵は「あやふやで猥褻な日本」だということに帰結していく。この言葉が出てきた時は、「あれ、50年前と今の敵、何が変わったのだっけ?」などと私は思ってしまったりもした。
今作にも登場する内田樹さんが、このシンポジウムについて書かれた記事が今作の理解を深めてくれる。
もし現代日本が多くの人にとって「知性が沈黙している時代」であるかのように感じられるのだとしたら、それは知識や情報が足りないからではない。言葉そのものはうんざりするほど大量に行き交っている。しかし、それを生気づける「力」がない。立場を異にする人々、思いを異にする人々が、にもかかわらず「一緒にいる」ことのできる場を立ち上げることが「言葉の力」だという三島の洞察が理解されていない。
三島は、立場や思いを異にしているにもかかわらず、「言葉の力」をもって「一緒にいる」ことができる場の可能性を提示した。そして、「熱」「敬意」「言葉」の必要性を語った。
最後まで、熱く、優しく、愛情たっぷりに、学生とコミュニケーションをとった三島は、「楽しかった!」という感想を、後に述べたそうな。
三島は、この翌年、自決する。
「熱」「敬意」、そして「言葉」。その3つの要素と共に、自分の落涙の意味を悶々と考えている。
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ココも興味深い
①戦争体験の有無が思想に与える影響
②シンポジウムを仕切っている東大生のキャラクターが濃い
③当時は、当たり前なのだろうが、女子学生が一人もいない(唯一いた女性は、登壇者である芥正彦さんの抱っこする赤ちゃんのみ)。
④タバコという舞台装置の役割
⑤メディアと三島の関係
⑥青春期と反体制の相性の良さ
⑦芥さんのファッションセンス
……など。
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今日の一曲