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『未来と芸術展』。人は、私は、明日どう生きるのか?

森美術館で開幕した展覧会『未来と芸術展:AI、ロボット、都市、生命─人は明日どう生きるのか』に行ってきた。100点以上の作品・プロジェクトが一堂に会する。かなりの量なので、時間と体力を確保してから臨むことをオススメする。

マクロ視点とミクロ視点と

会場構成は、「都市の新たな可能性」「ネオ・メタボリズム建築へ」「ライフスタイルとデザインの革新」「身体の拡張と倫理」「変容する社会と人間」の5セクション。

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都市計画から建物を通し、洋服、食事を経て、人間へ。マクロ視点からミクロ視点へ移行していくように構成されているというような感じだろうか。作品について細かく語るとキリがないので、展示全体から受けた感想をザックリと言うならば、

「建物や街を考えると未来って悪くないのかも」と希望が描かれているのに対し、人間の未来をとらえた作品やプロジェクトは、なんとも割り切れない苦い気持ちになるものが目立ってくる。

ということだろうか。建物や都市は「善」「希望」に満ちているのに、人間をフィーチャーした途端、なぜか悪い予感がよぎる。極めて、不穏なのである。

善と悪のデュアルユース問題

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どんなテクノロジーも使われ方次第。善良にも、悪にも利用が可能だ。運用するのは人間(いや、もちろん、それ自体をAIに委ねる、いや、知能が高度化したAIに人間の権利を剥奪される可能性さえも秘めているけれど)。テクノロジーを理解する人だけに、その運用を委ねるリスクを私たちは考えるべきだ。テクノロジーは既存の法律の枠をやすやすと超えてくる。テクノロジーの力を制御できるのは、人間の想像力、思考力、そして、何より良心だ。

他者理解と暴力性

社会学者の岸政彦さんのインタビュー。

他者理解って必ず一般化を含むから。自分の言葉に彼らの言葉を翻訳するわけです。あるいは倫理的判断、それ自体が暴力。だから、いかにそういう営みが暴力かということを徹底的に考えた上で、それでも他者を理解し続けないといけないと思うんですよ。

他者の倫理観をパトロールするだけではなく、自分の倫理観が絶対ではないことも、もちろん自覚したい。岸さんは、このインタビューを以下のように締めくくる。

僕自身は無宗教ですが、もしも根拠のない信念というものを「信仰」と呼ぶのだとしたら、僕の場合は「世界は『全体としては』良くなっている」、というのが信仰なんだろうなと思います。

森美術館館長・南條さんの集大成

森美術館館長を退任される南條史生さんが最後に自身で企画を担当した展覧会『未来と芸術展』である。もちろん、これまでのたくさんの話題の展覧会を担当してきた次の館長となる片岡真実さんにも期待しかない。けれども、南條さんの迫力ある企画が好きだったので、こっそり寂しい。

南條さん最後の企画は、人間の未来は倫理感との攻防であることをしっかりと提示している。

ほかのことは結局「モノ」に帰結していくと思うんだけど、身体論だけは自分の体に戻ってくるじゃない。人間は今のままの体でいるのだろうか、と。
情報技術でも、AIにモラルをどう教えるかが重要であって。教え方を間違ったらAIが人間を抹殺しようとするかもしれない。環境を第一に考えるとなった途端に、一番環境を汚しているのは人類だから人間を殺せばいいわけなんだよね(笑)。だから情報技術においても、倫理問題が一番大きいとされている。

人の心は脆く、うつろう。

その特性を鑑みても、テクノロジー開発にともなう倫理の問題はひとりひとりが日々意識して、少しでも違和感を感じたら、声を上げる勇気と俊敏さが必要となってくる。未来を、そして希望を語ることは、まず、絶望と対峙することから始めなくてはいけないのかもしれない。


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