スパイク・リーの“せやろがい”
昨日は朝から観ようと決めていたスパイク・リー監督の『ザ・ファイブ・ブラッズ』を観た。
被害者なのか? 加害者なのか?
スパイクらしく問題意識がギュウギュウに詰め込まれているので、完全なる娯楽映画として楽しむのは難しいかもしれないが、アクションとか冒険ものとか、青春ものとか……映画愛的要素も盛り盛り(それこそ、これはテレビ画面ではなく、映画館で観るべきスケール感!)。とにもかくにも情報量が凄まじく、でも、その情報量に圧倒されるままに、押し寄せてくる波に身を委ねていたらあっという間の2時間30分であった。
BLM抗議活動が世界規模で展開する中、この映画をこのタイミングで投下できる”運”も含めて、スパイク・リーの円熟味を感じる今作品。いろいろ語る要素が多いなと思うながらに、私は
■差別問題は白人vs黒人の二元論では語れない(何せ舞台はヴェトナム)
■同じ人種であっても思い描く理想は様々。問題は複雑化していく(志を同じくしていたはずの仲間が分裂していく)
■被害者だと思っていても、見方や立場を変えれば加害者になりうる(それに登場人物たちは無自覚)
あたりをとても考えさせられた。
そして、KKKを核とする一部の白人たちによって引き起こされたとされるタルサ暴動をベースにした『ウォッチメン』を思い出し、夜の間中、問題の複雑さにズッポリとハマってしまった。
敵、味方の境なくマスク(覆面)を着用している。白人至上主義のヒロイズムだったり、 自衛のためだったり、差別からの保身だったり、自分のトラウマを癒すためだったり、多重人格の獲得だったり、神が私たち人間に紛れるためだったり……などなど。この作品内で「マスクをする」という意味は多岐にわたる。
米疾病対策センター(CDC)は現在、すべての米国民に対し、公の場でのマスク着用や布製品などで鼻や口を覆う対策の実施を呼びかけている。しかし、アフリカ系や中南米系などの非白人層からは、こうした勧告への抵抗感を示す声も上がる。米国社会において非白人が顔を覆っていると、犯罪に関連するイメージを持たれやすいというのがその理由だ。
頭の中がグルグルし眠れなくなりそうなので、ボーッと見られそうなバラエティにチャンネルを合わせたら、お笑い第七世代の四千頭身が恋愛観を語っていた。しばらく眺めていたが、目の前で語られることに全く現実感を感じられず余計にサワサワしてしまい、テレビを消した(もちろん、四千頭身は悪くない)。
自分も加害者かもしれない、という意識
最新のせやろがいおじさんの動画が話題になっている。いつも通り声を張り上げて始まるのだが、途中で急に「素」になって、自分の心情吐露を始める。
以前にミソジニーという批判を受けて、自分は受け入れ難かったけれど、やっぱりそういう部分が自分にはあるのかもしれない。
年月をかけて自分に染み込んでしまった無自覚な部分に気づいて、それを変えることは正直とてもしんどい作業だけれど、それでも更新していかないといけない、と語りかけてくる。
せやろがいおじさんというキャラクターを意を決して(そう見えた)脱ぎ捨てたこの回は、人がサナギから蝶へと脱皮する瞬間を目撃したようで、ディスカバリーチャンネルのような趣さえある。人が何かに気付き、変態していく様は、こんなにも尊いのだな、と思う。
過去のインタビューも併せて読むと、より感慨深さが増す。
せやろがいおじさんは、なぜ“誰も傷つけない笑い”を目指すのか。「差別する側は、息を吐くように差別すると気づいた」(huffingtonpost)
日米のせやろがいおじさん
スパイク・リーの映画は説教くさいと敬遠する人は多いと聞く。美意識も、スタイルも全く違うので異論もあるだろうが、勝手にスパイクは”アメリカのせやろがいおじさん”なのかもしれない、なんて思う。だって、スパイクは、作品中で、昔からずっと“せやろがい(≒だって、そうだろ!)”と言い続けている。
昨日は、日米のせやろがいおじさんがほぼ同時期に発したメッセージに耳を傾け、さらに世界中のBLMの抗議活動に思いをはせつつ、日々の自分自身の言動をきちんと省みる必要性を強く思う1日だった。
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