『クリスチャン・ボルタンスキー』大回顧展。Lifetimeを考える。
数日前の35度を超える酷暑の中、国立新美術館へ現代を代表するアーティスト、巨匠クリスチャン・ボルタンスキーの大回顧展に足を運んだ。
越後トリエンナーレや瀬戸内の展示などで単発作品は観ていたのだけれど(それは結構、好みでした)、ここには約50点が一堂に会している。
写真、書籍、電球、衣服など多様なメディアを用いて、集団や個人の記憶、そして宗教的や死にまつわる作品を制作してきたボルタンスキー。(パンフレットより)
これは礼拝なのか?
驚くほどに照明がおとされ、午前中であったにもかかわらず時間感覚を見失う会場。はりつめたような静謐な空気。それは、まるで敬虔な信者が集う礼拝堂に迷い込んだよう。
ひとりひとりの意味は溶ける
『ぼた山』。たくさんの黒いコートが積み上げらえていて、1枚1枚を見分けることは難しい。まるで人間の思い出がすべて失われ、一体となっているかのようだ。個々人の個性は消え去り、不定形なかたまりだけが遺されている。(パンフレットより)
こちらは設営風景。
『保存室』。衣服は抜け殻のように壁に吊り下げられている。ボルタンスキーにとって、着用された衣服、人間の写真、あるいは身体は、主体を指し示すオブジェである。(パンフレットより)
『黄昏』。3つが毎日消えていく。展示会会期のはじめはとても明るい状態だが、最後には完全に暗くなる。これは人生があらかじめ決められた死に向かって進んでいることを示している。(パンフレットより)
理由をもつ国民、もたない国民
写真が使われている展示が多いのだが、そのほとんどは新聞の死亡告知欄に掲載されたスイス人。ボルタンスキーがスイス人を選んだのは、「彼らが死すべき歴史的な理由を持たなかった国民だからである」。なかなかに考えさせるのもがある。私たち日本人は、たぶんに理由を持ってしまうということだ。
視覚だけではなく、聴覚、嗅覚にも訴えかけてくるような展示が続く。特に、彼の代表作とも言われる『心臓音』を始め、「聴覚」への刺激はなかなかなものがある(ちなみに、入り口横の映像作品の聴覚への刺激が、かなり私をナーバスにしてくれた)。
人間はどこから来て、どこへ帰るのか
ただ、「圧巻」と呼ぶには軽すぎて、作品ひとつひとつは静かであるのに、言葉にはしきれない「凄まじさ」があり、完全に何かを吸い取られてしまい、会場を出た後、しばらく力が入らなかった。海外旅行などで「綺麗そう!」くらいの理由で大聖堂に入ったら、その宗教的な意味合いにずっしりと何かを背負ってしまう感じ、とでも言うのだろうか。
人間はどこから来て、どこへ帰るのか。そんな「普遍的な問い=死生観」を会場内では暗示的に随時投げかけられるので、受け止めすぎるとなかなかにしんどいものがある。
体験できて良かった。とはいえ、おいそれと薦めないけれど(苦笑)。
ご興味が出た方はコチラ⇩を。
ちなみに、表参道ルイ・ヴィトンのボルタンスキー展示は無料かつ、穏やかな気持ちで鑑賞できるので、こちらはどなたにもオススメ!