NETFLIX『彼女』を観て、考えた
NETFLIXで『彼女』を観た。監督が男性だということで嫌な予感はしていたが、本当に予感が的中してしまった。
あくまで男性目線の『彼女』
原作は話題になった発売当時に読んだきり(約10年前)ではあったけれど、#me too 以降の今、この作品を映像化することに、なぜ、ここまで無責任になれてしまったのだろうか?
日常的に夫から暴力を受けていた女と、その女を慕い、請われるままに彼女の夫を殺したレズビアンの友人。殺害現場に証拠を残したまま二人の女はともに逃亡を謀る。明日をも知れぬ逃走生活の先に二人は果たして何を見るのか、それぞれどう落とし前をつけるのか――?(amazon あらすじより)
「男性目線を排除せず、女性を客体として捉えてしまった」ということが今作の大きな読み間違いの原因だとも思う。性描写が消費されないようにするにはどうしたらよいか? 今の時代には考えすぎてもしすぎることはないと思うのだが、どれくらい熟慮したのだろうか?
監督は、NETFLIXの『火花』で高評価を得ていたからこそ白羽の矢がたったのだと思うけれど、ブロマンスを描くのが上手だったからって、それとこれとは全く意味が違うのだよ、という。
『燃ゆる女の肖像』
というわけで、『彼女』の反動(!?)で、「今、観るべき一本!」として最も挙げられているだろう『燃ゆる女の肖像』を(昨年末のロードショーを見逃していており、現時点で都内で唯一上映されている下高井戸シネマへ)観に行ってきた。
作品評は、以下に詳しく、特に以下の部分に「本当にそれ!」と膝を打った。
ひたすら女性の登場人物に焦点を絞り、男性が後景に引いた『燃ゆる女の肖像』は、映画における伝統的なジェンダーの不均衡を見る者に改めて意識させることになるだろう。娯楽映画が好きな自分は、これまでどれだけたくさんの「男が男を追いかけ、見つめる物語」を眺めてきたのだろうか。
『存在しない女たち』
以前に読んだ『存在しない女たち』によれば、「男性の方が配役が多いだけでなく、スクリーンに映る時間が平均で2倍も多い。男性が主役の場合(大半の映画はそうだ)、3倍近くに。女性が主役に近い場合に限って、映る時間が同じくらいになる」のだそうだ。
これだけでなく、私たちが、現状、いかに男性が基準(デフォルト)の世界を生きていることが多数のデータで指し示されていく。
イントロダクションより。
あまりにも長い間、女性は人類の典型からの逸脱とみなされてきたせいで、見えない存在に成り下がってきた。いまこそ、物の見方を変えるべきだ。いまこそ、女性たちが表舞台に姿を現すときだ。
女×女の物語を描くことに、今、世界とはこれほどまでの差が開いてしまっている。「エンタメは社会を映し出す鏡」と考えるならば、なかなかに胸をえぐられる思いだ。『燃ゆる女の肖像』を観終えた後、私の足取りはかなり重くなってしまった。
この現実をしっかり自覚し、編集者として日々のコンテンツづくりと向き合っていかねば、と思う。
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<余談ですが>
選ばれた曲たちに罪はないけれど、『彼女』は音楽がかかる度に気持ちが盛り下がってしまった。「(予算があるNETFLIXだから)普段使えない音楽(洋楽)が使えた」と監督はインタビューで答えていたが、「使えるからって、使わなくてもいいんですよ」と思ったのは私だけではないのではないか? どうしても、ひと昔前のロードムービーに付き合わされている気分になってしまった。
一方、『燃ゆる女の肖像』のセリーヌ・シアマ監督は、パンフレット掲載のインタビューで以下のように語っている。
音楽をできるだけ使わなかったのは、当時の感覚をできるだけ再現するためでした。(中略)音楽は、彼女たちの人生において、求めながらも遠い存在のものとして描きたかったし、その感覚を観客にも共有して欲しかったのです。
ゆえに、劇中でかかった2つの楽曲(1つはオリジナル)が今も私の頭の中で鳴り止まない。
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