私の祖父と、「マレーの虎」が率いた久留米の兵士たち。【運命の分かれ道】①
書き始めたばかりのnoteマガジン、Before Too Late かつて、旧日本軍が統治したマレー半島で紡ぐ「赦しの糸」に、読んでくださった方から、ぽつりぽつりとメッセージが届き始めました。知っている人も、初めての方からも。
とても嬉しいです。こちらから読めます。
本日は、私は会ったことがない、戦中戦後を生きた大正時代に九州で生まれた祖父について。そして、マレーの虎について。
昭和52年生まれ(現在42歳)の私が生まれる前に、60代の若さで昭和51年に亡くなったという父方の祖父のことを、先日帰省した際に、大好きな伯父(父の6歳年上の長兄)から話を聞きました。
私の両親が結婚した時はとても喜んでいたそうです。そして結婚の翌年、もうすぐ初孫(私)が生まれる頃に亡くなりました。
九州筑後地方の出身で、戦中と戦後(昭和18年〜24年)に生まれた息子達三人を、貧しいながらも育てあげました。もう一人の伯父(父の中兄)は、出生後まもなく高熱を出し小児麻痺を患ってしまい、祖母はいつも障害を持った子を背負って農作業をしていたそうです。三男である私の父が生まれた昭和24年頃には、米農家だけでは食べて行けず、時には傘を作る内職も夫婦でしていたそうです。
私の父は、一番幼かったせいか両親が苦労していたことをお兄さんほどあまり覚えてないようですが、しょっちゅう話題に上っていたのは、「家には米と高菜漬けしかなかった。お肉などはほとんど食べたことがない。近所のよその家にテレビが来て、小学生の時に子供達が大勢押しかけて窓から覗いていた。」という話をしていて、よく子供心に父の話を聞きながら「大変だったんだなぁ・・・」と思ったのを覚えています。
伯父によれば、祖父はお酒が大好きだったそうで、昼間からカップ酒を飲んだりすることもあったそうです。それがたたってか、若い頃から肝臓がとても悪く、戦争中は出征は出来ずに、師団の馬の世話をする係だったと聞いたそうです。
私がある時帰省している時に、その伯父と私がお互いに興味を持っているアジア太平洋戦争の話をしている時に、伯父が話してくれてとても印象深かったのが、「マレーの虎」についてでした。
姪である私がマレーシアに住んでいるのだから、当然知っているだろう、と思ったそうですが、私は当時「マレーの虎」という言葉を全く聞いたことがありませんでした。伯父の話を聞き興味が出た私は、マレーシアに戻ってから早速調べてみることにしました。
私がこうして東南アジアの旧日本軍の統治時代について調べ、ついにブログを書こうと思い立つまでに、いろいろなことがありましたが、これが一番最初のきっかけとなった出来事でした。
「マレーの虎」とは
1941年(昭和16年)の開戦時、イギリスの植民地であったマラヤとシンガポールを、上陸からたった2ヶ月で陥落させた当時の大日本帝国陸軍の英雄、山下奉文(やましたともゆき)大将の通称です。
このマレー作戦を率いた第25軍の司令官だった山下大将は、イギリス軍に歴史上最も屈辱的と記憶される無条件降伏をさせた人物として、歴史に名を残しますが、終戦後には一転、A級戦犯としてフィリピンマニラで処刑されました。
第25軍の隷下の第18師団が、マレーシアとタイ国境のコタバルにてマレー上陸作戦を開始したのが1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃の1時間20分前とされています。
このマレー上陸作戦が、事実上アジア太平洋戦争の開戦となりました。
そして、調べて行くうちに驚いたのが、コタバルに上陸したとされる第18師団の編成地が、なんと伯父の住む故郷、筑後地方福岡県久留米市だったのです。第18師団は、当時国軍最強と言われ、皇室の紋章「菊」与えられたことから、別名「菊兵団」と呼ばれていたそうです。
祖父が、所属していた陸軍の師団について調べてみようと思い立ったのは、これがきっかけでした。
初めて伯父から話を聞いた日から、点と点がつながり線となる瞬間をいくつも重ねていきました。
シンガポールを陥落させ、勢いに乗った日本は、マレー半島のみならず、東南アジア全域に領地を拡大して行きます。
長くなったので、続きます。
<<画像は、イギリス無条件降伏調印の模様。左から3番目座っているのが「マレーの虎」山下奉文(やましたともゆき)大将。>>