2023年夏 戦争を知らない親世代の私たちに出来ることについて考える - 広島原爆資料館を訪ねた日のこと
Matahari@マレーシアです。
しばらくこちらのnoteをお休みしていた間、わたしは日本にいました。
今年12歳を迎えたアメリカと日本のハーフの息子と二度目の広島へ。
広島に行くことを伝えたら一緒に行きたいと言ってくれた同年代のお友達家族に連れて行ってもらいました。ありがとう!
前回はたしか息子は7歳。まだ幼かったので資料館には行かず原爆ドーム前に行き平和の鐘を鳴らしたことを覚えています。そして、かつてこの場所で何があったのかを、原爆ドームが見えるベンチに座ってお話ししました。
息子に聞くと「覚えているような覚えていないような・・・」という返事。
今回の二度目の訪問が、将来息子の記憶に残ることを祈って、いつか彼がこの文章を読んでくれることを期待して、記憶が新しいうちに備忘録を綴っておこうと思います。
8月9日(水)
暑い暑い日でした。
長崎原爆の日、九州は台風の影響で大雨が降っていましたが、山口を出発し広島へ東へと向かう車中で天気は好転し、到着した頃には雨風は止んでいました。そのおかげかいつもより曇り空で過ごしやすい日だったと思います。
午後に行ってみると、平和記念資料館にはビルの外まで長蛇の列が出来ていました。
最近リニューアルされたという平和記念資料館は、ストーリー性を重視した展示に生まれ変わったとのことでした。
戦前の広島の賑やかな街並みや、こどもたちの笑顔が、壁一面に紹介されたエントランスから始まります。
そして次の展示に向かうゲートを通ると、運命の日。原爆が投下された8月6日。
その日の様子が、足を踏み入れた私たちの目の前に広がります。
無惨にも吹き飛ばされた広島市の街並み。
廃墟の中には、爆風に耐えたいくつかの頑丈なビルたちと、ぽつんと焼け野原に残された鳥居がありました・・・。
息子がその鳥居に興味を示したのでその場で調べてみました。
その鳥居は、広島護国神社のものだったそうです。
(護国神社とは戦争で犠牲となった人々を英霊として祀る全国各地にある神社です)。
その原爆投下後の様子を展示するお部屋の中央には、広島市中心部の大きな模型が据えられ、直径5kmの範囲の映像を見ながら、人々が暮らす街のど真ん中に原爆が投下され、あっという間に焼け野原となったことを伝える展示があります。
導入部分からすでに目頭が熱くなりました。
その後は、被曝された方が描かれた惨状の絵や実際の写真、被害を伝える現存する遺品などが所狭しと飾られていて、子供たち(息子のお友達15歳と12歳と一緒に訪れました)も一つ一つの展示を食い入るように見つめていました。
鮨詰め状態の8月の資料館では、外国からも多くの人々が訪れていたのが印象的でした。
この広島平和記念資料館の訪問を通して、息子とも対話がかなり進みました。
戦争の時代を生き延びたわたしたちのご先祖様の話もこの機会に何日かに分けてすることができました。
(わたしの福岡県久留米出身の父方の祖父はビルマに出征する隊だった龍兵団に徴収されましたが、病気のため国内に残り生き延びたこと、母方の福岡県飯塚出身の祖父はロシア国境の満州に徴収され、終戦前に福岡防衛のために内地に戻ってきたことなどが、今年2月に軍歴を取り寄せわかりました)
それを知った12歳の息子の口から
「ひいおじいちゃんたちが生き延びなかったら、じいちゃんばあちゃんも、マミーも、そして僕も、生まれていなかったんだね。」
という言葉が出て、親子でご先祖様への感謝の想いが共有できたことが、心から嬉しかったです。
戦争を知らない親世代のわたしたちが、次の世代に戦争について伝えていくことは、非常に難しい課題だと思います。
ただ、戦争を伝える場所を一緒に訪れてみる、ということをまずやってみて、お互いの視点を共有していくのが、入り口としてはいいのではないか、と今回改めて思いました。何歳で始めるのがいいかは、その子の個性によって変わるのでしょうけど、これまで息子が5歳頃から、日本に限らずアジアの戦争関連の歴史を伝える場所を訪れてきて、ようやく親子で深い対話が持てる年齢になったと感じます。でも早く始めていたからこそ土台が出来たようにも感じます。息子はYouTubeで見たという歴史関連の動画を時々シェアしてくれたりするくらい歴史に強い関心を持つ子に育ちました。
私が出来ることは限られていますが、これからの時代を生きていく息子が、平和を守っていく人でありますように。どんなに周囲に反対されても流されることなく、平和的な選択を出来る強い人であって欲しいと、母は心から願っています。
広島平和記念資料館公式ウェブサイト