"恥ずかしい"の原体験
「恥ずかしい」という感情が苦手だ。
恥ずかしいことが好きな人なんていないと思うので、
改めて言うことでもないんだけど。
自分が恥ずかしい思いをするのも避けたいし、
少し前に「共感性羞恥」という単語が話題になったけれど、
恥ずかしい、ハラハラするようなドラマのワンシーンを見るのすら、
見ていて恥ずかしくなってしまうので苦手。
人前で話すのは好きではなくて、10人以上の場で発言する時には
それが会議の場であっても、全員が知り合いでも恥ずかしくなって、
ちょっと声が上ずったりする。
カラオケは、絶対に人と行っても歌いたくない。
歌っているところを見られるのが恥ずかしいから。
歌うこと自体は好きなので、家でラジオで流れた曲に乗って熱唱するし、
誰にも見られない1人カラオケなら全力で楽しめる。
(ドリンクを届けに来るあの瞬間以外ね。)
注目されている中でうまいリアクションが取れないから、という理由で
そもそもうまいリアクションなんか求められていないのに
誕生日を祝われるのが苦手だ。
そんな私の「恥ずかしい」の最初の記憶がなんだったのか、
明確に、鮮明に思い出せる。
今から20年近く遡って、小学生の頃。
私の通う小学校では、秋になると学芸会、または展覧会のどちらかが隔年で行われていた。
1年生の時は展覧会、2年生の時は学芸会、といった具合に。
2年生の学芸会がなんだったかは忘れてしまったけれど、
4年生の時には自分で志願して、シーツを切って被ったみたいな衣装を着た
10人ぐらいの村人の中の1人を演じた。
村人8だったか、名前もなく数字の振られた役名で、
間違えることが不可能なぐらい簡単な、1つか2つのセリフを言って無事に終わっていった。
絶対に失敗しない、目立たない役を選ぶあたり、ビビリで冒険はしたくない、
とても私っぽい、と思う。
今思い出すと、劇の演目にはあまりパターンがなく、
2年前にどこかの学年がやっていた劇を今度は別の学年が披露したり、
特に代わり映えのしないイベントだった。
それでも、比現実感があって展覧会よりも学芸会の方が好きだった。
最初の私の強烈な「恥ずかしい」はそんな学芸会の思い出の中に潜んでいる。
元々あまり目立ちたがりの方でもなかったし、
背も低いし、運動ができるわけでもなく、クラスの中で目立つ感じでもなかった私は、
何を思ったのか、学芸会で主役をやりたい、と思った。突然。
なんでそんな願望が芽生えたのか、大人になった今に至るまで何度も振り返っているけど
どうしても思い出せない。
演劇部でもなかったし(そもそも小学校に演劇部なんてなかったし)
引っ込み思案の目立たない私がなんでそんなに大胆な発想に至ったのか
まずその発想自体があまりに私らしくなくて驚く。
先生もクラスメイトも、私が進んで目立つことをしようだなんて、
相当驚いたんじゃないかと思う。
思い出せない動機は置いておいて、
この劇は、魔法使いの女の子が主人公で、台詞と歌で展開されるいわゆるミュージカルだった。
主役はダブルキャストで2名の枠があった。
蓋を開けると、隣のクラスも含め6年生全員の中で主役に名乗り出たのは3人だった。
つまりダブルキャストに対して1人あぶれる立候補数。
私以外には、明るくてスポーツもできる、大きな笑顔の可愛らしい子、
勉強も運動もできて華やかな子、
いかにも主役感のあるキラキラした女子2人が立候補していた。
もう、見るからにその2人が主役、私は最初から敵わないのが明白だった。
それでも、いったん立候補したものを引っ込めるわけにもいかなかったし、
しかもその時の私は何故か闘志に燃えて「挑戦しよう!」という固い決意があって、
オーディションをします、ということになった。
そのオーディションは、学年全員で体育館に集まって行われた。
役の希望者が1人ずつ、ステージに上がって
課題に設定されたセリフと課題の楽曲を全員の前で披露するという形式だった。
それはそれは、本当に恥ずかしかった。
何度も1人で練習したセリフを、そっくりそのまま喋るだけなのに、
会場の広さ、たくさんの生徒たち、先生のこちらを見る目が全て怖くて、
自分だけが何か檻の中に居て、じろじろみられているような心地がした。
誰かにやらされたわけではなく、自分で立候補したので
誰かを恨むわけわけにもいかないけれど、
それはもう本当に、いますぐ穴があったら隠れたい、
紛れもなく、これぞ「恥ずかしい」というという気持ちだった。
もうこの辺から記憶が曖昧なのだけれど、
多分私はセリフを飛ばしたり、歌詞を間違えることなく、
私の持っている全ては出したと思う。
そして結果は確か見ていた生徒たちの投票で決められた気がする。
多分オーディションなんかしなくても投票結果はそうなったんだろうけれど、
私以外の2名が主役に選ばれた。
人前に立った時のあの信じられないほどの恥ずかしさだけでなく、
「あの子主役やりたいと言い出して落ちた子だ」と思われているんだろうな、という
もう一つの恥ずかしさまで追加された。
そうして敗れた私の小学校生活最後の学芸会は、
自分の身の丈にあった番号が降られた村人の役に落ち着いた。
最近小学校からの友達と連絡を取る機会があり、
あの6年生の時に主役をかけたオーディションでステージに上がったことを思い出した。
なんだかその感覚を日記として残しておきたくなってこの文章を書こう、と思ったのだけど、
書き始めてみたら鮮明にあの日のオーディションの景色を思い出して
手にも足にもじわっと汗をかくぐらいまた恥ずかしい気持ちが湧き上がってきた。
もしあの時、恥ずかしい思いを乗り越えて無事に主役になっていたなら、
自分だけ落ちた、という恥ずかしさもなく、
もしかしたら演劇の楽しさに気づいちゃったりなんかして、
人前に立つ仕事を目指したりしてね!とか思いながら書き始めたけれど、
やっぱり私はそういう器じゃないな、と書きながら蘇ってきた感情に
改めて実感させられただけだった。
最近の学芸会は、みんなやりたい役ができる、
主役が何人もいる、なんていう都市伝説みたいな話があって
よく揶揄されているけれど、あんなに恥ずかしい思いをしなくて済むのなら
それも良いのかも、と思えてしまう。
それぐらい、私に刻まれて20年経っても消えない「恥ずかしい」の
強烈な体験になっているのである。
とか言って、この文章を全体に公開している時点で
結局のところ、突然主役に名乗り出たあの頃と変わっていないのかもしれない。
三つ子の魂百まで、ですね。
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