秋のバルビゾンにて想う
バルビゾンと言うと、何を連想するであろうか。大抵の場合はフランス絵画のスタイル、<バルビゾン派>ではないか。更に突き詰めて行くとジャン=フランソワ・ミレーとか…、<画家たちの村>。もしそこで<ガンヌの宿屋>が出てくるようなら貴方はよほど通か、或いはプロである。
加えて私のように食いしん坊はあの肉の美味しいレストランが直ぐに浮かんで来る場合もある。もちろん<オテルリー・デュ・バブレオ>内のレストランで別世界の雰囲気を味わうのも素敵だけれど正直言ってあの肉自慢のレストランのステーキは忘れられない。
バルビゾンとは不思議な名の村であるが、元々はカール大帝の書物の中に<バルビティオ(Barbitio)として言及されているとの事で、それが808年。
現在人口1500人弱、パリから70km南下、フォンテーヌブロー城から10kmのところにある小さな小さな村である。日本では兵庫県の朝来市と姉妹都市関係にある。
通常、特に月曜日は数少ないカフェも閉まっていて朝は誰もいない。
そう、実は画家に愛された村と言って観光で訪れても実際はたった一本の道、その名も<グランドリュ(Grande rue)>を中心に散歩する事が殆どである。この短い道にいろいろと詰まっているが、くまなく見ても一時間位で充分である。
特にミレーのアトリエを訪問する事が出来るのが凄い。といっても3室だけで、入口兼アトリエ、居間、そして台所のみ。しかも狭い。が、色々とミレーの思い出が詰まっている。
ミレーはバルビゾン派の中心的存在である。その他ジャン=バプティスト・カミーユ・コロー、テオドール・ルソー、トロワイヨン、ディアズ、デュプレ、そしてドービニーの7名がバルビゾン派の中心と言えるのではないだろうか。
バルビゾン派とはこのバルビゾン村周辺に滞在したり、辺りの風景をテーマにした作品を創り上げたアーティストのことを指すので、現在ではざっと100人以上いるはず。その内のいくつかの作品はミレーの家の元台所で販売されているし、冒頭で紹介した私の好きな肉自慢のレストランの横の壁などに飾られているモザイク画を作成した3人のアーティストのこともバルビゾン派と呼べるのである。幅広いのであるが、今回はコローとミレーの話をしよう。
偶然ながら、2人とも亡くなった年は同年(1875年)である。スタイルは全く異なっていて、コローは風景画、ミレーと言えば農民とその生活を描いた作品が多い。
生まれ年はコローが断然早く、1796年である。51歳(1847年)まで人生かなり大変だったそうであるが、その後なんとあのドラクロワに認められて画家の人生がコローと(すみません、またダジャレてす)
変わる。トントン拍子で出世して、1867年には官展の役員に抜擢される。
その後は弟子としてカミーユ・ピサロやベルト・モリゾなどが集まってくる。
ベルト・モリゾに関してはnoteの記事で<白薔薇とベルト・モリゾ>というタイトルで紹介しているのでよかったらご参照を。
ジャン=バプティスト・カミーユ・コロー
<フォンテーヌブローの森>
1834年
ワシントン、ナショナル・ギャラリー
コローの描く絵は単なる風景画だけではない。この絵を観ても、左下に髪の長い、白いブラウスと赤いロングスカートの女性が寝転がっている。この女性がマグダラのマリアではないか説が根強く広がっているのだが、コローの絵はこの様に景色だけではなくストーリー性も強い。こうしたことによってただの風景画としての評価より価値を上げる事にかなり貢献した。
ミレーは61歳で亡くなっており、その後子供たちの育児支援を行ったのはコローである。
こういった話を聞くと、19世紀以降の画家達の仲間意識はかなり強かったのだなとつくづく感じる。
ジャン=フランソワ・ミレー
<晩鐘>
1857ー1859年
オルセー美術館
この作品は現在はオルセー美術館にて
<落穂拾い>と並んで展示されているが、元々はルーヴル美術館に寄贈され、展示されていた。
ミレーの子供の頃の思い出を描いたもの。鐘がなったら仕事の手も止めてお祈りに集中しなさいと祖母に言われていた日常の習慣を描いたものである。
背景はあってもコローのものとは全くスタイルが異なる。
話は戻るがガンヌの宿に関して、ミレーがすぐ近くに自らのアトリエを持つ前に住んだことがあるらしい話と、またテオドール・ルソーも同じくグランド・リュにアトリエ兼住居を持っていて、そこも今では記念館になっているが、ミレーと共に作品をここに残している。ルソーも食事をしたり泊まったりしたのではないかと思われる。このガンヌの宿はバルビゾン派を語るにはなくてはならない存在であったと言える。
元々ガンヌ夫妻は食料品店を営んでいたのだが、画家達の依頼で食事を作ったりしているうちに宿屋になったと言う話し。ただ、よくある話で、集まってくる画家たちは決してリッチとは言えず、宿泊費の代わりに自分たちの絵を置いていったりというパターンが多かったらしい。
ここで<バルビゾン派>と<印象派>の違いを明らかにしておく必要がある。
先ずは世代が違う。メンバーが違う。
印象派達は主にコローの弟子であるピサロやモリゾの世代になる。
また、バルビゾン派はこの文中で説明している通りでバルビゾン村中心だが、印象派はそれに対して特定の場所はない。パリだったり、郊外であったり、ノルマンディー地方であったりと幅広い。
印象派の時代にはフランス鉄道も発展して、画家達もカンヴァスを持ってあちらこちら自由に移動出来る様になったし。
これは大きな違いである。
それに対してバルビゾン派は日中すぐ近くのフォンテーヌブローの森でスケッチ等の創作活動をして、ガンヌの宿で食事を取って、仲間達と話し合ったりして、夜は休むという生活を送っていたのであろうと想像がつく。
そんな事を考えながらグランド・リュのそれぞれの記念館など訪問するのは楽しいし、特に秋のツタが赤、オレンジ、黃、茶色に染まった町並みは見事に美しくて、まるで自分がバルビゾン派のアーティストになった様な錯覚に陥ることも不可能ではないかも知れない。
ところが一つ大事なことを忘れてはいけない。
バルビゾン派が真に愛して止まなかったのはこの村だけではなく、むしろ周辺の森なのである。大自然である。
人間なんて、それに比べればなんてちっぽけな存在なのか思い知らされる。