この店行ってみたかった
19世紀のパリにあった店。
その時代にパリにあった出来事を証明してくれ、パリの様子を語ってくれる店。
でも今はもう無い店。
憧れのアーティスト達の、特に当時活躍した画家の名前と顔は知っているものの、その人達がどんな暮らしをしていたのか、また何を考えていたのか、どんな物に興味を持っていたのかを知りたいのであって、その一環として当時パリで流行っていた店を覗いてみたいのである。
特にパリで日本文化が流行ったという1860年代から1900年代あたりまでの街の様子を知りたい。
例え馬鹿みたいと思われても切実にタイムマシンが欲しいのである。
実は前々回のnoteに投稿した作品でジャポニズムについて書いたのであるが、その中でジェームズ・ティソという画家について色々と調べていた時に<ラ・ポルト・ド・ラ・シノワーズ(La porte de la chinoise)>という名前の店がルイーズ・ドゥソワなる人物によって1862年にパリのリヴォリー通りにオープンして、そこでは浮世絵やオブジェなどが取り扱われており、ティソは勿論のこと作家のエミール・ゾラ、詩人のシャルル・ボードレール、ドガ、マネ、モネなど著名なアーティスト達が頻繁に通っていたという事実を発見した。
この店は日本美術について色々と語り合うことの出来る場所でもあったというから、アーティスト達が店主と、また仲間同士であれこれ日本について語り合っていたところを想像すると益々興味深さがつのる。
画家のクロード・モネといえばジヴェルニーにある家が有名で、誰もが一度は訪れたい憧れの場所であるが、室内に飾られている数多くの木版画や磁器はこの店で入手したものだと言う。
そう言えばモネは自宅に日本風の庭を設けて、日本風の橋、竹藪、睡蓮を眺めながら作品を仕上げていったという。
そうしてモネはそれまでのフランス風景画のイメージを変えていったのだな。
また、パリのフォッシュ通りにあったジェームズ・ティソの邸宅の室内は贅沢な友禅染の絹や、彼の作品<日本の品々を眺める娘たち>に描かれている花瓶などで飾られていたという。
上の3点ともジェームズ・ティソの作品、<日本の品々を眺める娘たち>
①1869〜1970年頃
個人所蔵
②1869〜1970年頃
シンシナティ美術館
③1869年
ポール・ゲッティ美術館
これらの作品中のオブジェもティソがドゥソワの店で買い付けたらしいが、屏風、壺、花瓶等どれも一目みて二人の女性の風貌や装いと同様の華やかさに加えて日本の美そのものに引き寄せられる。
こんな作品がズラリと並んでいた店なんて行ってみたかったなあと思い、そこで今更ながらその店の所在地であったリヴォリ通り220番地に足を運んでみた。
勿論店は何も残っていない。ただし面白いのは隣の218番地にブライトンホテルがあり、そこの創業開始は1830年というから、また、この並びは偶数の番地しかないことから例のドゥソワの店と隣り合わせになっていたことになる。
さらには並びにあの老舗パレスホテルの<ル・ムーリス>もあり、そこは創業開始が1835年だという。
224番地には先日ツィッターで紹介した素敵な本屋さん<ガリナーニ>が1801年から営業している。
あのモンブラン等で有名な<アンジェリーナ>は1903年開始なのでその時期まで
<ラ・ポルト・ド・ラ・シノワーズ>が続いていたか微妙なところであるが、もしそうだとしたらその時期この極限られた界隈はかなりゴージャスに賑わっていたことになる。
「やはりその時期にそこに行ってみたかった。」
という無理な願いが益々強まっていく。
日本の特有なスタイルが、独自の美がパリの、特にアーティスト達に愛されて、その証拠として芸術品や浮世絵などがパリ中心地の、しかもお洒落なアーケード内の一角に並んでいる…、素敵すぎる。
実はパリにもう一つ興味津々の店があったのだが、その名も<メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー(Maison de l'Art Nouveau)、アール・ヌーヴォー・ハウス>という。オーナーはジークフリード・ビングで、1870年代に浮世絵版画と工芸品を取り扱っていたそうだ。
ゴッホが初めて浮世絵を見たのもこのビングの店だと言われている。
ビングはルーヴル美術館のあるルーヴル宮内の装飾美術博物館などにも日本の美術品を納めていたそうだ。
この博物館、現在はティエリー・ミュグレー展好評開催中だが、やはり近年記憶に残るのはあのクリスチャン・ディオール展の大ヒットである。ウットリする展示多々の中、最後に白いブラウスの陳列は今でも鮮烈に記憶に残っている。
そんな素敵な企画の会場となったところであり、常設も良いが、特別展はどれも見逃せない、特にファッション、アクセサリーやデザインに興味のある人は行かなくてはいけないところなのだ。
そしてビングは1895年には9区のプロヴァンス通り22番地に例の<メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー>を開いたのである。
ビングの店で働いていたマリー・ノルドリンガーという女性はなんとマルセル・プルーストの友人で、日本のオブジェを見せたところ、やはりプルーストも気に入ったそう。
ここまでくればまさに向かうところ敵なしという感じの日本美術であるが、1900年初めから財政難が始まり、1922年にはビングの建物は壊されたそうだ。
結局残念ながら2軒とも現在は残っていないのであるが、19世紀の後半にパリで流行した日本美術、特に浮世絵がフランスのアートに多大なる影響を及ぼしたのは特筆すべきと言えよう。
最後にアーティスト代表としてエドゥアール・マネの版画作品を今回一点だけ紹介。
これを見てピンと来た人は少なくないはず。
エドゥアール・マネ
<すみれの花束をつけたベルト・モリゾ>
1872年
オルセー美術館
上の版画のイメージは明らかにマネのよく知られている作品からインスピレーションを得て取り組まれたものである。
マネは100枚近くの版画を作成したそうだ。
これでフランスの芸術の中での<ジャポニズム>の占める位置と重要な役割がはっきりとし、それがアールヌーヴォーを含めたモダニズムにまで結びついていることも明白になった。
現在でもフランスにおいて日本の存在は様々な面において注目されていると思うが、19世紀後半のものとは全く違うものだと思う。その違いが果たして何なのかを考えるたびに「この店行ってみたかった。」とつぶやく私であった。