見出し画像

真剣にエゴイストやってます。『なぜ、猫とつきあうのか』ブックレビュー

昨夜ベッドに入ったあと、まったく眠れなくなった。1日前に読んだ、『なぜ、猫とつきあうのか』(吉本隆明著)の言葉たちが記憶の断片とつながって、頭がぐるぐるし始めたからだ。いつの間にかエアで文章まで書き始めてしまっていた。

整理しないとやばい……、と慌ててここに書き殴っている。

まず思ったのは、時代を通じての、猫の飼い方の移り変わり。母が子どもの頃(昭和前期)、私が子どもの頃(昭和の終わり〜平成初期)、最近(令和)の猫の飼い方はまるで違う。

最近の飼い猫は、人間目線で家族化が進んでいると思う(猫にとってはどこ吹く風だろうけど)。外には出さない家猫が普通だし、病気の治療はもとより、健康食を選んだり予防接種もしたりする。

遡って私が子どものとき(昭和の終わり〜平成初期)は、家猫は一般的ではなかったと思う。我が家でも、脱衣所の小窓を15cmほど開けっぱなしにして、自由に外出させていた。猫が病気になれば、人間と同じく病院で治療を受けさせていたが、予防医療まではしていなかった。唯一、身ごもらないよう(複数の猫を育てられないので)、避妊手術を受けさせたくらいか。 

さらに昭和の前半まで遡る。母が子どもだったとき、近所で子猫を見つけては、家に連れて帰って育てていたそうだ。4か月ほどするといつのまにか居なくなってしまうから(おそらく発情期のためだろう)、また他の子猫を探して育てる。病気や怪我をした猫がいれば、段ボールに入れて看病した。祖父母は、そういう娘の行動を黙認していたそうだ。

昭和の時代、母が経験したような猫との関わり方は普通だったのだろう。本書の吉本さん家族の眼差しにも、似たものを感じる。家の内外を自由に行き来する猫。一匹の猫が突然いなったかと思えば、新参者の猫がいつのまにか住んでいる。猫社会と人間社会が、ゆるく交わっているような。本書を読み進めながら、猫の、種としてのむき出しの本質を垣間見るようだった。

印象的だったエピソードがある。ふだん餌をあげている野良猫が、真冬に死にかけていた。吉本さん家族は、段ボールにホカロンを敷いて、安らかに逝かせようとした。しかしその猫は、よろよろと立ち上がっては段ボールから出ようとする。本書で描く猫は、「気まま」という言葉ではおさまりきれない。自由であること、エゴイストであることに必死だ。全身が、自発的な意思のかたまりであるように。

猫は横につながっているかんじがするんです。

『なぜ、猫とつきあうのか』吉本隆明著

吉本さんの言葉を読んで、うちの猫の習性を思った。朝、私がソファにすわると、膝の上に乗って私の鼻をひとしきりなめる(紙やすりで鼻をこする痛みを想像していただきたい)。昼間は母のあとをついて回る。夜、高校生の次男が勉強を始めると、開いているノートの上でひっくり返って、ゴロゴロと撫でられるのを待っている。かと思えば、大学生の息子のことは苦手らしく、彼が近づくとササっと逃げる。

真面目な話、キミの優先順位はどうなっているんだい? と訊ねたくなる。餌をくれるからとか遊んでくれるからとか、わかりやすいの、ないの? 

何かと何かの条件がそろったとき、「心地良いから、わたしはここにこうしているのだ」という、ゆるぎない主張。

吉本さんが本書で何度も言っている。猫を研究する本はさまざまあるけれど、どれもなんとなく納得できない。猫のすべてを解明できるとは言えないと。

そうなのだ。何年付き合っても、猫ってよくわからない。手頃な法則に当てはめてみても、「例外あるなあ」となる。そう言いながら、猫のわからなさに「なんだそれ」と笑って、まんざらでもなく生活している私たちがいる。

人間同士もそうかもなあ、完全にわかり合えることなんてないのかも。そもそもわかり合えると思うこと自体、傲慢なのかもしれない。予測や理解の範囲からズレているくらいのほうが、面白いし飽きない。カラフルでグラデーションがある世界は、単色ベタ塗りの世界より、きっとずっとキレイで愛おしい。正しいも間違っているも、上も下もなくて、みんな横につながって、真剣にエゴイストに生きる世界。ちょっといいかもなあ。


いいなと思ったら応援しよう!