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10. 《interview》 ダニエル・ドール: 「文化や愛を表現する演奏が、今は特に大切」
イスラエルのジャズシーンで活躍するミュージシャンの大半は、私たちが以前テルアビブに滞在していた頃(2008〜2012年)に出会った。当時は出会わなかったが、現在ここのシーンに欠かせないミュージシャンも大勢いる。その一人がドラマーのダニエル・ドール。彼に初めて会ったのは、2014年アヴィシャイ・コーエン・トリオのメンバーで来日した時だった。(インタビューは2023年11月26日)
ーー生年月日とかその辺のこと聞かせて
1986年12月2日、来週37歳になる。テルアビブ で生まれた。両親はイスラエルで大人気だったバンド(ポップミュージックのバンドHakol Over Habibi)で活躍していた。母は今でも歌っている。母と僕は時々一緒に演奏していて、今週もライブがある。父は今はあまり音楽には関わってなく、コーチングのようなことをしている。父と会う時は、そういう話をする。
僕は8歳の頃にピアノを始めて、10歳でピアノをやめてドラムにうつった。
ーーなんでドラム?
本能的に。台所の食器とかでドラムセットをつくったりしていた。またオーリーというクラスメートの影響もある。
ダニエルはイスラエルの芸術系中学校、そして名門のテルマヤリン高校、その後リモン音楽学校(バークリー音楽大学とも提携する学校)、そしてNYのニュースクールと王道中の王道を歩んできた。私たちが前にテルアビブにいた頃、ダニエルはNYで活動していた。
ーーNYではどうだった?
「お前誰だ」「何を言いたいのか」とNYにいつも聞かれているようだった。ジャズを生み出した文化、その文化で育った人々。オリジナルに触れられて、多くのことを学んだ。イスラエルでドラムのことを勉強できるだけ勉強したと思っていたけど、NYに行ったら、ここでは足りなかったものを得ることができた。
ーー イスラエルに戻った今、NYと比べてどう?
今はこことNYには文化的な共通点がある。イスラエル人やユダヤ人が経験する困難と、ジャズが生まれた背景の困難とに繋がりがあると感じている。エネルギーもすごく感じる。
2023年10月7日に戦争が勃発した。心の痛い日々が続く中、ダニエル・ドールはどんな想いで音楽と向き合っているのか。(インタビューは戦争開始から1ヶ月半後)
ーー10月7日はどこにいた?
ギバタイム(テルアビブの隣町)のアパート。最初のミサイルのサイレンは、よくわからなかった。朝早くて寝ぼけていたし。その後何度も鳴ったのでサイレンだと気づいた。
その頃はニタイ(ピアニストのニタイ・ハーシュコビッチ)と始めたプロジェクトのため、毎日ふたりで会っていた。曲を作って、録音して、食事をして、ピアノに腰掛けて話をするという日々を繰り返していた。ニタイはクラシックの話、自分は自分の取り組んでいる話をよくしていた。その最中に10月7日の惨事が起こった。記憶が正しければ、その日だけはニタイと会わなかった。
ーーその後に会ったときは何を話した?
ふたりともショックを受けていて、事態がどうなっているかはよくわからなかったけど、前代未聞のことが起こっているということだけは明白だった。ニタイと会って、僕らにとって何より大切なことは、このプロジェクトを続けることだと最初に確認し合った。
ーー大変だった?
録音の途中でサイレンが急になって、その度に避難して、そしてまた録音に戻るということを続けていた。
思い出すのは、隣人がどのような気持ちでいるのか、音を出していいものなのかが分からなくて、音の漏れないスタジオでこっそりやっていたこと。
でも、音楽をやっていることは安らぎだった。自分たちにとって演奏しないということは、風邪なのに薬を飲まないようなもの。だから、この嵐によって音楽を奪われないように守ることが大事だった。
ーープロジェクトの経緯を教えて。
今年(2023年)のはじめに、自分の最初のソロアルバム「Four Petals」をニタイのプロデュースで出した。数学的な形を、ドラムだけでなく、ピアノの四つの声で描けないか、という自分の発想から始まった。それをニタイに話したら、すぐに関心あると言って、どのマイクがいいとか、それぞれの花(曲のこと)を一つのアルバムという世界に納めていくことを手伝ってくれた。テルアビブのレーベルRaw Tapesもニタイの紹介。
今のプロジェクトはその継続。より協力作業になっている。ニタイには全体を見たスーパーバイザー的な仕事をしてもらっている。
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2014年 Avishai Cohen Trio@Blue Note Tokyo
ーー曲を書き続け、演奏つづけたということだね、今どこの段階?
今は最終段階にいる。名前などはまだだけど。あと二曲で、そのうち一曲はほぼ終わっている。4月末にスイスでのライブがちょうど決まったところで、それに向けて準備をはじめる。ライブ用に準備すること、そしてアルバムの形で仕上げるという二つの締め切りができた。名前募集中(笑)。
ーー録音したものを聞いた?
うん、すごく気に入った。録音を聞いてみて、何でこれに取り組んだかが理解できた。制作のプロセスはすごくゆっくり進めた。自分がリズムや気持ちのアイデアをニタイに提示して、二人で一緒にピアノの上でそれを表現していった。次にそのピアノでつくったものを声に分解していった。
ーーニタイとはいつ知りあったの?
ニタイとはトム・レブというサックス奏者を通じて、18歳頃に会った。お互いの家を行き来してよく一緒に演奏していた。その頃と今やっていることは全く変わらない。毎日数時間を共にして、一緒に音楽を作っていることがとても幸せ。
ーーベイト・ハアムディーム(テルアビブのライブハウス)について
アムディーム(ベイト・ハアムディームの俗称)では2011年のオープン当初から演奏している。まだNYにいる頃から、イスラエルに帰る度に足を運んでいた。ここを「音楽家にとってのホームにしたい」というアムディームのスタッフの強い思いを感じていたし、彼らのスピリットを信じていた。
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ーー戦争勃発後、初めて演奏しないかと言われた時どんな気持ちだった?
嬉しくて、すぐに演奏するよといった。今日のようなライブも(当時は限定的に)ボランティアだけど、音楽を続けるため、止めないように演奏することが重要だと思っている。
ーーでも客がいないかもしれない。
オーディエンスの存在がエネルギーをくれるということは確かにそうだけど、サウンドの力や、サウンドが与える愛のようなものがあることを信じている。
ーーオーディエンスとしても、今日は行って大丈夫か、サイレンがなるのではと不安になるけど、音楽家も?
同じような感じ。最近、厳しい経験をしたガザ周辺の人たち(各地に避難している)に向けて演奏する機会があった。そういう時は特に音楽の大切さをものすごく感じる。
ーー半年後の自分はどこにいると思う?
答えるのは難しい。まずは、最低限いまやっているニタイとのプロジェクトをしっかり終わらせる。そしてアルバムを出したい。今はエルサレムの音楽大学で教えているけど、この先がどうかというのは分からない。改めて音楽、新しい道を見つけたい。今ここに音楽家としていることの意味は、今日もそうだけれども、この空間にリズムを与えるということ。言葉で説明することは難しいけれども、そういうものを捉えて、音楽を演奏したいと考えている。
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ーー教える時に心掛けていることは?
ゆっくり音楽に取り組むように言っている。忍耐強く、追求して、新しいものを作り続けること。音楽には長い歴史があって、先人から学ぶことは多い。永遠に学べる。ニタイとバッハについて考えると語りつきないように、新たな言語を紡ぎ出そうと試みることに自分はとても関心があるし、生徒たちにも手を貸したい。
ーー生徒は音楽にちゃんと集中できている?
驚くことにできている。サイレンがなって一緒に逃げることもあるけど。現実の喧騒から離れて、1時間だけでもリズムのことだけを語ることは、生徒にも自分にも本当に必要で大切なこと。音楽の精神というのはとても強いのかもしれない、それを今自分たちで発見している。
ーーヨーロッパ・ツアーはどうだった?
アテネでは、ギラッド・ヘクセルマンと僕のふたりのイスラエル人がいたんだけど、ステージにあがって、満席だったのを見た時は安心した。人としても、イスラエル人としてもステージに立っていることが大切だった。演奏で文化や愛を表現することはとても大切だと、今は特に感じる。
ーーヘクセルマンは?
みんなと同じく彼も混乱している。彼と話していたのは、もっとも洗練された、深く、複雑な対話を作り出す努力をしようということ。対話をシンプルにすると、ここで起こっていることを理解できない。まずは自分たち自身に耳を傾け、ここで何が起こっているのか理解しようと努力している。
ーー自分で見ようとしていることと、外から見えることは同じではない。
戦争が始まってすぐ、オンラインで、だれか知らない人だけど、とても反ユダヤ主義、暴力的な表現を見つけた。この人と話さなければと思って連絡してみた。話し始めた時は酷かった。でも徐々に人としてのつながりができていった。30分くらい話してすごくいい関係が築けた。イギリスのガービンという男性だった。
ーー ダニエルから見るテルアビブの良さってどんなところ?
オープンマインドなところ 。街全体が好奇心に満ち溢れていて、文化に関心があり、芸術を愛している。ここは自然がないけど、自然がないところには文化がある。これはNYで聞いた言葉なんだけど、その通りだと思った。
ーー音楽を通じてどんな貢献をしたいと思う?
大変な思いをしている人たちを、音楽でサポートしたいし、イスラエルやテルアビブのよさを世界に紹介したいとも思っている。
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Daniel Dor
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