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マリサポの雑感

17th Jan. 2025
画像は昨年末に伺った櫻正宗酒造

30年前の早朝、長野県大町市の自宅で子供達のレーシングスキーのエッジ研ぎとワックス作業をしていた時に芦屋市の実家から電話がかかってきた。
父が「TVをつけて見て!」
スイッチを入れるとNHKで地震速報の画面。
「震源地はどこ?」と聞いてきたので「大阪や姫路は表示されているけど神戸周辺は深度表示がない!」、「多分神戸付近だね」と返した。
父は「怖かった! 居間のグランドピアノが走った!」と伝えてきたので「親父と母さんは大丈夫?」 父「二人とも無事、停電しているので情報が分からない。詳しいことが分かったら教えてくれ」で電話が切れた。

それからは電話も通じなくなったけど、両親の無事を直後に知ったのは幸いだった。

支度して工場に出勤、工場長から「ご両親は大丈夫?」と聞かれ「無事と連絡がありました」、「これから大阪支店と連絡を取ります」と返答。

大阪支店には泉州地区の住人だったデリバリー担当者が「阪神間の役員、部課長と連絡が取れない」「電話が使えない」と伝えてきた。
その頃には職場でつけていたTV画面に阪神高層道路が崩れた衝撃の画像が!
「これ実家の近くの景色だ!」、、、「物流と情報網は麻痺してる!」
工場長から東京本社に了承をとってもらい、大阪支店から顧客リストをFAX(何故かFAXは通じた!)してもらい職場仲間と阪神間以外の調達先とお客様にお見舞いを伝えながら必要な支援を伺った。幸い工場に向かう原料・製品物流に関わる車とはすべて連絡が取れて、無事が確認できた。

3日間、お客様との連絡や必要とする支援や商流・物流の確認が取れたところで、工場長から「早く芦屋に帰りなさい!」と言われ、乗り継ぎと徒歩で実家に帰った。道中、大阪までは公共交通が通じていたが、西宮から景色が一変、まるで爆撃を受けた戦場の様相の中を芦屋に向かった。

実家周辺は震度7、幸い平屋建てだった実家は崩れずに済んだが周りの家はすべて全壊。多くの方が命を落とされていた。両親は私の顔を見て緊張がほぐれたのかその時の安堵の表情が忘れられない。
幸い、親戚で人的被害はなかったが、服用していた処方薬が暫く入手できず、持病が悪化した叔父が半年後に亡くなった。私を一番可愛がってくれた叔父だった。叔父は私に常時服用の処方薬は1ヶ月分余分に持つことを教えてくれた。

あれから30年、今でも実家には当時工場から持参した会社のヘルメットが置いてある。
昨年末、母校のスポンサーの一つだった櫻正宗酒造(櫻宴)を訪れた。酒蔵も震災で全壊から復興し写真の姿になっている。忘れたいこと、忘れてはならないこと様々な思いが交錯する震災記念日。

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