ギャルと習字と遊郭と
先日、ギャル専門のアパレルとかアクセサリーを作っている方と仕事をする機会があった。
「ギャル」なんていうと、すっかり平成初期のムーブメントだろうと思っていたが、ここ数年リバイバルしているらしい。
ちなみに表題の画像はnote内の共有イメージから使わせていただいたものだ。
おそらくAI生成画像であろうが、打ち合わせに来た女性経営者と女性社員さんは、まさにこんな格好をしていた。
キャバクラとかに居そうというか、私はそんな先入観大盛りで打ち合わせに臨んだのだが、雑談で聞いてみると、やはり昼職としてアパレルをやりながら夜はキャバクラとかガールズバーでダブルワークしているギャルは多いとのことだった。
さて、その打ち合わせで、とある場面で書類に署名する場面があった。
そのギャル社長がボールペンで署名したのだが、その文字を見て私は思わず、おおっ、と声を出してしまった。
恐ろしく、字が綺麗だったのだ。
ちょっと上手いとか、そういう次元ではない。
お手本で販売されていそうな、見事なペン字だったのである。
私はギャル社長に、失礼ですが書き文字が大変お綺麗ですね、と言った。
ギャル社長は照れくさそうに、習字を習っていたんです、と答えた。
そのやりとりを聞いていた社員さんが、また言われましたね、と笑う。
聞けば、取引や打ち合わせなどで文字を書く機会があれば、毎回褒められているのだそうだ。
私はその文字の美しさにすっかり心を奪われてしまって、習字についての話を色々聞いてみた。
どうやら家がけっこう裕福で、中学生ぐらいまで習字、ピアノ、バレエなどを教わっていたらしい。しかも習字は全国的なコンクールで何度か入賞しているとのこと。
ギャルファッションに目覚めたのは高校生の中頃からで、それからはほとんどやっていないが、やはり字を書くと褒められるので、自宅ではノートなどに書いて維持する努力をしているそうだ。
私は、ギャル社長の見た目からは結びつきにくい思わぬギャップにやられてしまった。
私の時代のギャルは、渋谷あたりで座り込んでいたり喫煙したり売春したり、お行儀の悪さ=自由、みたいな印象だったように思う。
「大人の作ったルールなんて“うざい“」といったような主張が反抗の旗印となり、少年期から青年期に移行する中間である「社会適応期」の抑圧された精神を「縛られない自己表現」で解放しようとファッションにしたのがギャルだった。
スカートを折り込み超ミニにしたり黒髪を金髪にするのは、大人とシステムの象徴である学校という存在のルールから逸脱するためだ。ごつごつしたストーンが乗った恐ろしく長いネイルや必要以上に大きく開けられたボディピアスは、料理洗濯家事手伝いという昭和女性を象徴するイメージを拒否しますという宣言だった。
要は、大きいカテゴライズで言えばパンクファッションの一種だったわけだ。
当然世の大人たちは、不良のレッテルを貼り社会問題化し、ギャル文化をニッチ化させようとした。
ギャルたちは徹底抗戦、安室奈美恵や浜崎あゆみがジャンヌダルクとなり、雑誌のeggが聖書となって、彼女たちのギャル文化を一層盛り上げていった。
まあそんな過去を知っているおじさんの私としては、ギャルと美文字が全く結びつかなかったのである。
勝手な先入観で、普段はペンなぞ使わず、崩した短文と絵文字をスマホで送り合っている印象しかなかったので、漢字もよく書けないだろうと思い込んでいたのだ。
印象のギャップが与える力というのは恐ろしい。
私は目の前に座っているギャル社長が、内に秘めた才女をひた隠しにしてビジネスをこなす、鋭い爪を隠した鷹のように見えてきた。
部屋が汚いようなギャル特有のだらしないイメージが払拭され、家ではきちんと生活をしているようなイメージが湧いてきた。
確かに若くともアパレルや小物の会社の社長なのである。そりゃあそうだろうという納得感すら覚えるほど、美文字の効果は抜群だった。
しかし、今振り返って歴史を思えば、旧くは江戸や大阪の芸妓たちも、華やかで妖艶な見た目とは裏腹に徹底した才女を仕込まれて育った。
三味線、舞踊、浪曲、絵や詩にも長け、言葉巧みで話題は幅広く教養も高く、人脈も広かった。今の世に置き換えるとスーパー営業ウーマンのモデルのような職業だ。秘書でも引っ張りだこだろう。ただ体を売っているだけの夜鷹とは大違いだ。
座った途端に、一杯いただいていいですか、と言ってそこからはニコニコうなずいているだけの現代キャバ嬢とはわけが違う。文字通りお話しにならない。
江戸や大阪で名を挙げた豪商の旦那たちは、こういった美しくしたたかで才能豊かな「いい女」をものにするために遊郭へ足繁く通ったのだ。そこには間違いなく価値の高い「魅力」があった。
第三者から見える自分の印象を分析した時に、自分の属性と正反対の内容を戦略的にひとつ取り入れてみると、それが物凄いバランスの取れた魅力として映る時がある。
大谷翔平もいい例だろう。数十億稼いでいるのに遊び嫌いで質素謙虚な生活を好む。中田翔のような「稼いで遊び散らかす」野球選手のイメージとは違って、それが魅力的に見える。
所ジョージもあれだけ有名なのに、たけしやさんま、紳助やダウンタウンのような色恋スキャンダルがない。聞けば収録の後はまっすぐ帰宅して妻の手料理を食べるから打ち上げにもほとんど参加しないという。
自分の得意なフィールドで結果を出したあと、能力の次の段階へ進むためにも大きな鍵になりそうだ。「結果」の次には「格」が求められる。「格」は独りよがりの尖った能力だけでは表現できない地平にある。
いろいろ難しく言ったが、ギャルは良かった。ということです。