2018年の瀬。東京SUP水路巡り(前)
大納会の翌日、年の瀬の静かな東京の水辺をSUPで巡る。
『名前がどうやってつけられたか?』ということを探ることは、そのモノやヒトの物語そのものに触れることが出来ると思っている。
漕ぎながら橋の名前を見ているうちに、このログが土地や橋の由来を調べるきっかけになれば面白いな、という思いが強くなった。調べて書く時間が長くなりそうだけど、こういうのもまた面白い。気になったらどんどん加筆するので、サグラダ・ファミリアのようになりそうなエントリ。
事前に各所と調整を行い「大島川水門」の近くの大横川から進む。
Ⅰ、大横川
「大横川」はかつて「大島川」と呼ばれていた運河。1965年に「大横川」に名称変更されたものの、派流である「大島川西支川」「大島川東支川」「大島川水門」などの関連する名称は改称されておらずそのまま残っている。どういう経緯があったか分からないが面白いところ。
・『越中島橋』
『隅田川河口にできた寄り洲だった。江戸初期の一時期、播州姫路の領主榊原越中守(えっちゅうのかみ)の別邸があったので、俗に越中島と呼ばれた』
駅で言うと、JR京葉線の越中島駅と東京メトロ東西線の門前仲町駅の間くらいに位置する。
・『東富橋』(とうとみばし)
橋をくぐると平久川と交差。平久川を右側へ進むと豊洲方面へ出る。この東富橋と茂森橋は、関東大震災の復興事業で架けられた震災復興橋。
その後永代通り沿いに門前仲町駅・富岡八幡宮の裏手を通り、木場駅の東側で大きく北へカーブ。水面からは見えなかったけれど、このカーブの脇の沢海橋第二児童遊園には「関東大震災横死者供養塔」があるそう。古くから人口が密集したこの辺りでは、災害の被害が大きかったのだろう。進んでいくに従って災害被害を記録する碑がいくつか出てくる。
・『木場公園』
写真左側の木が茂る場所は「木場公園」。公園内には東京都現代美術館。
・『茂森橋』
橋の名は元禄時代からこの地にあった町名に因む。震災復興橋の意匠が特徴的な橋。潮が満ちていたので腹這いで進む。写真両端の意匠に関しては下記が詳しい。
『石造りの親柱は上部が歪んだ六角形をしている。アーチ状のコンクリート橋台を両岸の川のなかに建て、そこに鋼製の桁橋を渡した構造は内務省の復興局が考案した復興橋梁特有の形式とされ、隅田川以東の深川地域には下路式のトラス橋が多く架けられたなかで、現存する数少ない例のひとつ』
・『亥之堀橋』。
名前が非常に気になる。
「明暦の大火(1657)の後、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政は本所奉行に任ぜられ、本所一帯を整備した。このとき、大横川は竪川や横十間川、源森川(現;北十間川)などとともに開削された。このときに大横川として開削されたのは小名木川までの区間であり、その先、木場までの区間は元禄8年(1695)に延伸された。その年は乙亥であったため、この区間は「亥ノ堀」と呼ばれた」
小名木川との交差を超えると「猿江と森下を結ぶ」ために架けられた「猿江橋」と、奇しくも干支の名称の橋が続く。猿江橋の近くにも東京大空襲の被害者の方を弔う祠がある。
川沿いにある材木屋さん。こういう木材を扱う商店が以前は多かったはず。
正面に見える高架は「首都高速7号小松川線」。高速から北側は、大横川は暗渠となる。私たちは西へ90度曲がり、高速の下にある竪川(たてかわ)へ入っていく。
Ⅱ、竪川
「竪川」は隅田川と旧中川とをつなぐ運河。江戸城に向かって縦(東西)に流れることからこの名称となったそう。
『水運華やかかりし時代は小名木川と並び、隅田川と旧中川を結ぶ直線航路として、物資の輸送、成田山や香取、鹿島神宮などへの参詣路としても親しまれたそう』
という一面も持つ。引用元のサイトの『道の屋根が覆い被さってはいますが、何とかして愛しの竪川に陽の目を見せてあげたいという思いで、このサイトを立ち上げました』というのも、熱量が伝わってきて面白かったので紹介したくなる。
三之橋の近くにあった趣のある東京「瓦斯」の注意看板。ガス関連の何かしらの設備があった名残なのだろう。
両国JCT近くにある「竪川水門」をくぐると隅田川へ。
Ⅲ、隅田川を北上し神田川へ
隅田川を上流へ向かう。
JR総武線の『隅田川橋梁』。空が高い。
『両国橋』をくぐって、正面に見える神田川へと入る。
Ⅳ、神田川を西へ進む
総武線・中央線に沿って神田川を進んでいく。神田川に架かる橋に関しては『東京・神田川 橋の写真と歴史』さんのサイトに詳しい。
・『柳橋』
『神田川が大川に流れ込むところにあるので「川口出口之橋」という名称であったが、ほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになった』
隅田川合流地点近くにある柳橋の下の水上建築は、東南アジアなどの水上都市をほうふつとさせる。
神田川河口は屋形船の船溜まりになっている。なぜ年の瀬のこのタイミングに水路巡りをしているかというと、狭い神田川を航行する屋形船の邪魔にならないようにしているから。ピンクの屋形船は、外国からのツーリストに人気のよう。そういえば、お台場沖ににもたくさん屋形船がいる。
・『和泉橋』
『橋の北に藤堂和泉守高虎(とうどういずみのかみたかとら)の屋敷地があり、これに由来するといわれる。』
鉄道関係の書籍が充実している書泉グランデ。中学高校時代に何度か来た。橋はの上は昭和通り。高架橋は首都高速道路1号上野線。不思議な乗り物に橋の上からのぞき込む方多数。
・『神田ふれあい橋』
『東北・上越両新幹線東京駅乗り入れ工事に伴って創られたJRの鉄橋工事用の橋が、地元の要望でそのまま一般開放されて今日に至る人道橋』
東北本線の鉄道橋をくぐる。写真では分からないが、鉄道橋は建設時期で橋梁のカーブが異なるのが面白い。
・『万世橋』
『徳川将軍家が歴代将軍を祭る「上野寛永寺」に参る時に使う「筋違橋(すじちがいばし)」が、明治5年に取り壊され廃材を利用して筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋となり、当時の東京府知事であった「大久保忠寛(おおくぼたたひろ)」が「萬世橋(よろずよばし)」と命名したが、音読みの「まんせいばし」の名前の方が一般化したらしい』
・『旧万世橋駅』
写真左側は旧万世橋駅。小学生のころ連れてきてもらって大興奮した交通博物館があった場所。こうして水上という、いつもと異なる角度から東京の街を見ていると、幼少期に交通博物館に来たときの「非日常感」を思い出す。
・『昌平橋』
『橋の名前になったのは、江戸時代の五代将軍徳川綱吉の命名によるそう。綱吉は儒教を唱えた孔子を祀る霊廟として、湯島に「聖堂」を創建したが、儒教教育の学校を孔子の生地であった「昌平郷(しょうへいきょう)」に因んで「昌平坂学問所」としたことから、「一口橋」を「昌平橋」に改めたのだという』
今回の水路巡りでもっとも楽しみにしていた『聖橋をバックにした、神田川を渡る丸ノ内線』。幼少期から大学時代まで定期的に丸の内線に乗っていたけど、水面からこの景色を見ることが出来る日が来るとは!とても感慨深い。この景色を見ることが出来ただけでも来た甲斐があった。
・『聖橋』
『震災復興橋のひとつとして昭和3年に架橋された白いアーチ形のこの橋の名前は、一般公募によるもので、北側の湯島聖堂(ゆしませいどう)と南側のニコライ堂という二つの聖堂を結ぶことにちなむ』
聖橋を見ると、米津玄師さんではなく、さだまさしさんの「檸檬」を思いだす。『1978年3月25日にリリースしたアルバム『私花集』の収録曲であり、8月10日にリリースしたシングル盤』。
・『お茶の水駅』
改修中の御茶ノ水駅。水面から見上げると足場の構造が凄い。*十年前のこのころは近くにある駿台予備校に通っていて、勉強はしたくなかったからよく散歩をしていたなぁ。
いろんな思いが頭の中をよぎる中漕ぎ進む。正面に見えるのは順天堂大学。
・『後楽橋』
後楽橋の先を曲がり神田川とお別れ。中央線をくぐって日本橋川へ。明治時代に作られた中央線のレンガ造りの橋げたも水上からだと間近に見ることができる。
(後編へ続く)