舞台『アーモンド』の感想
怪物のようだけど怪物じゃない、ユンジェとゴニの不器用な愛が美しい。生演奏と振り付けで抽象化された身体表現は、舞台ならではの体験だ。一人一人の声と動作に個性がある。感じることとは何かを私たちに問い掛ける。
これが舞台『アーモンド』の感想の要点だ。
私、街河ヒカリは原作の小説『アーモンド』を読み、その後、2022年3月にシアタートラムで舞台『アーモンド』を観劇した。本稿では小説についての感想を省略し、舞台の感想だけを書くことにする。本稿は全文が無料だ。
会場ではステッカーが配布されていたので、このページのカバー画像にした。
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私が観劇した回はAチーム、つまりユンジェが長江崚行(ながえ りょうき)、ゴニが眞嶋秀斗(ましま しゅうと)だった。
一番の見所は、「感情がない」「ロボット」「怪物」と見なされるユンジェだった。長江崚行が演じるユンジェは、視線が泳ぐことはなく、感情に連動する体の動きが乏しく、声が平坦だった。地の文と台詞でほとんど同じような声だった。しかし地の文と台詞の区別は文脈から容易に読み取ることができた。ユンジェの特性を正確に表現することと、舞台としてのおもしろさを両立した長江崚行の演技力はお見事。
二番目の見所は、ユンジェと対極にいるゴニだった。怒りを沸騰させ暴れるが、しかし完全なる「怪物」にまでは至らず、幼稚なかわいらしさを醸し出していた。ゴニは「怪物」と「平凡」の間にいた。それほど遠くにはいないが、近くにもいない。眞嶋秀斗はこの絶妙なさじ加減を表現していた。
ユンジェの母さんには深みがあった。ユンジェの脳が人と違うと知ったときの悲しみ、ユンジェを生きさせようとする強かさ、クリスマスイブに降る雪にばあちゃんと一緒にはしゃぐ子どもっぽさ、そんな多面性が母さんの奥の深さであり、母さんの魅力だった。
母さんを演じた智順は、地の文を読む声が美しかった。地の文でありながらも情感が放出され、しかもわざとらしさもない。その声がフワリ響くと、作品世界の空気感がフワリと創られた。
母さんの隣にいたばあちゃんは、母さんよりもコミカルで、滑稽で、いじわるだけど、変人としてのかわらしさがあった。きっと伊藤裕一は変人を味わい深く演じることが得意なのだろう。
ドラは風のようだ。走るときや歩くとき、軽やかに跳ねるようにステップを踏んでいたことが印象的だった。親への不満を早口で語るときは、不満があるのにパッと明るかった。
ドラを演じた佐藤彩香は蝶の演技もしていた。まっすぐに前を見て羽を広げる様が美しかった。蝶に擬態していた。
佐藤彩香は、身体表現の幅が広い。
ユン教授は、なんともはっきりしなかった。落ち着きがなく、目標が定まらず、迷ってばかりだった。小説を読んだときにもそれを読み取ることはできたが、舞台では神農直隆の演技によって、さらに濃く表れていた。
一方、シム博士は落ち着いていた。シム博士を演じる今井朋彦の低い声には、思慮深さ、ゆっくりと丁寧に生きようとする構えがあった。
全体を通し、振り付けが効果的に活きていた。殴ること、混乱すること、時間が流れることを、振り付けと音楽で抽象的に表現していた。抽象的だから、意味が濃厚になり、分かりやすくなった。この抽象化は舞台ならではの手法だろう。
序盤で役者たちが「愛」「あ」「い」「永遠」「え」「い」「え」「ん」という声を交錯させ、その声は会場内にエコーした。これからの登場人物たちの交錯を暗示しているようだった。「愛」と「永遠」は物語のキーワードでもあり、伏線のようでもある。これも舞台ならではの、身体を活かした手法だ。
生演奏のキーボード(桑原まこ)とチェロ(吉良都)が美しかった。音の数が少ないから、観客に聴かせたい音が際立っていた。
ところで、中盤に流れた曲には聴き覚えがあった。たしか有名な曲だったような気がするのだが、あの曲は何だったのか思い出せない。ご存じの方がいれば教えてほしい。もし私の勘違いだったら申し訳ない。
終盤でユンジェの感情が爆発した!叫んだ!
(以上の出典はすべて ソン・ウォンピョン著、矢島暁子訳『アーモンド』p.243-245、祥伝社)
本作が上演されているまさに今、ロシア軍によるウクライナ侵攻が続いている。ほぼ確実に観客たちは「戦争」という台詞からこの現実を連想しただろう。もちろん私は連想した。そして「忘れた」という台詞が刺さった。私も、今ニュースで報道されているウクライナとロシアの人々の不幸をすぐに忘れてしまうのだろうか?
アーモンドを食べたあとにも味が残り続けている。
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