雨月日記

序文(こっそりと尾形亀之助に寄せて)

六月。僕がこの小さな詩文集を作製することに、何ら積極的意味もない。殊更にその事を宣伝するつもりもない。そうかと言って消極的な意味合いもない。この集を出すことを言い訳に、死んでしまおうと思っているわけでもない。毎年のことのように梅雨に入ってずいぶん経ったが、今月の初めからなんだか疲れている。身体が重いというのもあるが、覇気がない。それは自分の根源を見つける作業をして、整理すれば何とかなる代物だと知ってはいるが、そういうことはとても疲れることだから、と僕は前の前の恋人と、そのもう一人前の恋人に教えられたので、やめる。それは僕が未だに彼女たちを好きだからだとか思われても、それはそれでつまらない奴だと思われてしまうのは気分がいい。ぜひに、そのままに放って置いて欲しいし、彼女たちも僕に「もう放って置いて」と言った。

僕がこの詩文集を出すことに意味はない、と言った。でもそれでも出したのだから何かしらの意味があるのだろうと言われるかもしれないと思ってしまうところもあるので、ひとまず書いてしまおう。つまりは気分が悪くなったから、吐き出してしまおうと考えたのだと思って欲しい。小さな子どもが親戚のお婆ちゃんの家に行く途中に酔ってしまい、親父に車から降ろされて道端に吐いてしまっている、というのとあんまり変わらないと思ってしまって欲しい。到着する頃にはすっきりして、元気に遊びまわって母親が「あの子、途中で本当は吐いちゃったんですよ」とお婆ちゃんの耳元で囁くような、そんな集だと思ってしまって欲しい。僕は、梅雨に酔って気分が悪くなってしまって、久しぶりに行くお婆ちゃん家のように楽しみな夏のために、小さな集として吐き出してしまおうと思ったのである。

それでも、毎年の梅雨にやられている人は僕以外にもいるだろう。部屋の出窓の大葉の苗に水をやりながら、そう思っている人は沢山いるんじゃないかと思ってこの集を作ろうと思ったのも事実である。ただ、そういう僕の目の前の、育ち過ぎた苗のように鬱蒼とした気分を、皆様と共有したかった訳ではない。ただ何となく共感してもらって、それぞれがそれぞれに、その嫌な気分を取り払うために、詩文集として吐き出すとそういう方法を取る人間も居るのだなということを、何となく胸の中で何度か頷いてもらえれば良いだけの話であると思っている。

二〇一二年六月末日
青田宗助

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