デンマークの中心地にはなぜ高層ビルが存在しないのか。建築家ヤン・ゲールが広げた「人間スケール」の街づくり
北欧・デンマークで暮らし始めてから何年目だったか、イギリス・ロンドンに遊びに行った時の戸惑いをよく覚えている。林立するビルに囲まれて、私は圧倒されていた。その感覚に驚いたのは、以前、東京に住んでいた頃にロンドンを訪れた時には、そんな圧迫感を感じた記憶がなかったからだ。
これを機にコペンハーゲンの中心部を観察してみたところ、大企業が一等地に高層ビルを建てるようなことがないし、歩行者天国を中心とした低層の街並みが続くことに気がついた。それが、歩く人の感覚に合わせた都市設計のためだと知った時、なるほどそういうことか、と膝を打った。
連載ではこれまで、オランダと並んで世界トップと言われるデンマークの自転車インフラや、人間の本来のニーズを深く探った上で製品やサービスに活かす「デザイン思考」のアプローチ、そして、あらゆる層の人が使う空間を質の高いものにしようとしてきたデンマークの建築の伝統について書いてきたが、これらの源流には、「人を中心に据える」という考え方があるように思う。建築物にしろサービスにしろ、それを使う人間に対する意識の高さ、とでも言ったらいいだろうか。
こうした考え方がいかにデンマークに浸透していったのかと考える時、その象徴的な人物として名前が挙がるのが、「人間のスケールの街づくり」という考え方を広げたデンマークの建築家、ヤン・ゲール氏である。前回の記事で紹介した「デンマーク建築センター」CEOのケント・マティヌセン氏が、“現代デンマーク都市設計の父”と呼んでいた人だ。
この連載は、私が会いたい人に会いに行くための企画でもあるのだが、今年87歳になったゲール氏は、初めからその念頭にあった人だった。ベンチに座って街ゆく人々を観察し、スケッチブックに詳細に書き記してきた人らしく、インタビュー中も熱心にメモを記しながら、60年にわたる仕事の軌跡を伝えてくれたのだった。
建築には「人間」との関係が欠けていた
ゲール氏が王立芸術アカデミーで建築を学んだのは1950年代。当時の建築界にはモダニズムが到来し、奇抜な建物が評価される時代だった。これに対し、心理学者である妻や自宅に集まる妻の友人らは、建築家は人間のことをまったく理解していない、と常々批判していたそうだ。
1960年に大学を卒業し、中世の教会など歴史的な建造物を専門にする仕事を始めたゲール氏だが、そのキャリアが変わるきっかけは、ある教会関係者からの依頼だったという。
空いた土地に居住施設を建てたいが、何かこれまでにない、「人にとっていい建物」を作ってほしい、というリクエストだった。だが、人にとっていい建物とは何なのか、建築家はそのデータを持ち合わせていないと考えたゲール氏は、妻とイタリアに向かう。イタリアこそ、人々がいい暮らしを送る街だと考えてのことだった。半年間の滞在中、スケッチブックを手にベンチに座り、多くの人で賑わう広場や通りの条件について観察を続けた。
この時のデータを元にした論文が話題となり、ゲール氏はデンマークに帰国後も、人と街との関係についての研究を続けることになる。研究者としてデータ集めの舞台としたのが、1962年に車道通行禁止にして歩行者天国に作り変えたコペンハーゲンのメインストリート「ストロイエ」(冒頭の写真参照)だった。車社会の到来により、街の中心部に車が溢れるようになったために市がとった措置で、初めこそ自動車ユーザーの反対にも遭ったものの、市民の賛同を得て、車両通行禁止のエリアは次第に広がりを見せる。
「それまでは、建築についての技術的な研究と、人間にまつわる研究は、完全に分かれていた。建築物の構造だけを研究するのは簡単だが、“建物(form)”と“人間(life)”の関係性について研究したのは初めてだった。だから、研究結果をまとめた本が、世界中に翻訳されて広がることになったんだ」
ゲール氏が著書で伝えてきたのは、「人間の感覚とスケール」という考え方である。そこで指摘しているのは、高層ビル群の街や、何レーンにもまたがる車道でできた街が、人間の感覚をいかに撹乱させるかについてである。
「われわれがいま、都市生活で使っている感覚というのは、数百万年の生物学的な進化の歴史で培われた感覚と同じもので、時速5キロという歩行速度に合わせたものなんだ。自動車が時速60キロで走り始めたからといって、われわれの感覚が変わるわけじゃない。これは、日本でも、グリーンランドでも、オーストラリアでも変わらない。なぜなら、そこにいるのは同じホモサピエンスだからだ」
人の視覚では、最大でも100メートル先までしか見えない。だから人々が集ういい広場とは、世界のどこでも直径は100メートル以内。ストロイエでは、1月に100mを歩く人の平均速度は62秒だが、7月には85秒となり、人数が同じだったとしても夏の方がより街が活気に溢れる。そんな具合に、著書では、観察とデータに基づいた記述が続く。
1960年代に記した“人が集まる街”の条件は、今でも十分に当てはまる、とゲール氏は言う。それは、人間の感覚が変わっていないためだ。
ニューヨーク市からの依頼
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