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Topic 6:96年前のサンフランシスコの小学校で日本を学ぶ
1929年現在、ヨーコは7歳で、サンフランシスコのエマーソン・スクールに通う小学3年生です。
1929年2月25日(月)、ヨーコのクラスでは「日本についての学習」を終えたようです。
確かに、1月の日記を振り返ってみると、学校に日本のものを持っていったり、作るということが何回かありました。
School二Japanノモヲガツコーニモツテイキマシタ
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) January 14, 2025
学校に日本のものを持っていきました
SchoolデワJapanese pictureヲカキマシタ
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) January 15, 2025
学校で日本の絵を描きました
SchoolデワJapanese thingヲツクリマシタ Carriagesヲツクリマシタ
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) January 18, 2025
学校では日本のものをつくりました。牛車をつくりました
SchoolデワJapanese Carriageヲツクリマシタ
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) January 21, 2025
学校では日本の牛車をつくりました
In school we made Japanese things for our poster. I brought Japanese books to school. The children like them.
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) January 24, 2025
学校ではポスター用に日本のものを作りました。学校に日本の本を持っていきました。子どもたちは気に入っています。
Japanese picture、Japanese Carriages、Japanese things for our poster、Japanese books
これら一連がエマーソン・スクールで「日本についての学習」をすることだったと考えられます。
さらに振り返ってみると、「ヨーコの日記」の最初の記事で紹介したエマーソン・スクールのクラス写真と関連していることに考えが至りました。その写真には「LIFE IN HOLLAND」というタイトルがついていましたね。クラスでオランダ、ホラントの生活文化を学習していたのではないかと。
つまり「日本についての学習」は、「LIFE IN HOLLAND」の日本版だったのではないでしょうか。
そこで、「LIFE IN HOLLAND」の写真に当てはめてみました。
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ポスター、本、絵、車、それぞれのアイテムが合致します!
Japanese Carriages
ここで、Japanese Carriagesをどう考えるかです。Carriageは「(人などを運ぶ)乗り物;(乗用の)車;自家用四輪馬車」を意味しますが、日本で馬車が普及するのは、西洋文化が流入する明治以降です。それまでの日本において、人が乗る車を牽引する動物といえば牛でした。あるいは人が運ぶ駕籠や御輿があります。馬も古来よりいましたが、権力や武力の象徴でもあり、車を曳かせるようなことはなく、馬に直接人が乗って移動をしていました。
西洋文化とは違う、伝統的なJapanese Carriagesが何かといえば、牛車か駕籠や御輿なのではないかと考えた次第です。
Studying LIFE IN JAPAN
1929年、サンフランシスコの小学校で日本について学習をしていました。オランダ学習の時と同様に、全体発表であったり、記念写真を撮影する機会があったのでしょうか。残念ながらそのような写真を見つけられていないのですが、日記にその足跡をみることができます。
1924年移民法
アメリカは第一次世界大戦後に再びモンロー主義の原理に戻る動きが強まり、排外感情が高まります。それは外国からの移民を制限する政策となってあらわれました。1924年の移民法です。南欧・東欧系移民の制限とアジア系人種の移民が禁止されました。ここでいうアジア系人種とは中国人と日本人でしたが、中国人移民は1882年にすでに移民が禁止されていたので、1942年移民法は具体的には日本人移民が該当していたのです。この背景には、日本の帝国主義化による日露戦争、WWI後の中国大陸への進出が、アメリカ資本と衝突するようになったことがあります。
サンフランシスコは言わば日本からアメリカへの玄関口。ヨーコの父は日系企業である日本郵船に務め、帰化することを目的とする移民ではなかったため、同じような括りでは語れませんが、このような時代であったということが大前提としてあります。
異文化理解
しかし、このような時代にあっても、サンフランシスコのエマーソン・スクールでは異文化理解を進める学習をしていました。異国の文化や伝統を理解し、親しみを深める。自国文化を紹介して、他国の生徒に喜んでもらえたり、気に入ってもらえたりすることは、素晴らしいことです。
それは100年前も今も変わりないことです。
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SchoolデワSpellingトArithmeticヲシマシタ We have many nice things at school and we finnised about Japanese thing.
— ヨーコの日記 Yoko's DIARY (@yokodiary1921) February 25, 2025
学校ではスペリングと算術をしました。私たちは学校でたくさんの素晴らしいことをして、日本についての課題を終えました。
--finnished--のスペルミスはご愛嬌で!