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Topic 5: カール・ラーセンの公園 ③チボリ・カフェ

1929年2月17日(日)にヨーコが訪れたカール・ラーセン・パークについて、その成り立ちを追っています。

①では、パークの名前になったデンマーク移民カール・ラーセン氏について、スウェーデン語新聞の記事を紹介しました。

  • 開発前のサンセット地区に広大な土地を入手したことで、莫大な富を得た。

  • 晩年、ラーセン氏は寛大にもサンセット地区に所有していた2エリアを公園用地として市に寄付をした。

②ではツイン・ピークス・トンネル建設により急騰した課税額に反発したラーセン氏について、地元紙サンフランシスコ・コールの記事を紹介しました。ラーセン・パークの成り立ちの異なる側面が見えました。

  • ツイン・ピークス・トンネルの開通により、サンセット地区の地価が急騰すると同時に、課税額も引き上げられた。

  • その結果、サンセット地区の大地主であったラーセン氏は、いくつかの所有地を手放さざるを得なかった。

  • その一つがラーセン・パークとなった。

今回③では、ラーセン氏が経営した「チボリ・カフェ」について取り扱いたいと思います。母国デンマークのチボリ公園、サンフランシスコにあったもう一つのチボリを冠する娯楽施設;チボリ座についても紹介しながら、ラーセン氏の人物像や、彼を取り巻く時代背景について知れたらと思います。

チボリ・カフェ

金融都市として発展するサンフランシスコの北東エリア、チボリ・カフェはその中でも中心エリアにオープンしました。

①で紹介したスウェーデン語新聞「西海岸」には、チボリ・カフェについてこのような記述がありました。

(カール・ラーセン氏は)おそらく初の24時間営業のカフェ・レストランの経営者であった。明るく慈悲深い人物で、恵まれない人々に無料の食事を提供することもよくあり、店は常に十分な価値を提供することで有名になった。この広いレストランは、夜には、新聞配達員や夜勤労働者たちが駆け込み場所で、昼間も、立地の良さから繁盛していた。

カリフォルニア・デジタル新聞コレクション「西海岸」 45番、1928年11月8日より

ラーセン氏の寛大な人柄そのままのような、皆に愛されたカフェだったようです。「西海岸」に掲出された広告やサンフランシスコ市の写真アーカイブを引用しながら、チボリ・カフェについて時代を追って見てましょう。


1879年 チボリ・カフェがオープン

Vestkusten, Number 16, 20 April 1889

チボリ・カフェ
ベーカリー&アイスクリームパーラー、
サンフランシスコ エディ通り 18番
店主C. G. ラーセン
市内最大かつ最も人気のあるカフェ

デンマークのベーカリーというと、やはりデニッシュを提供していたのでしょうか。アイスクリームは禁酒法時代(1920-1933年)のアメリカで急速に普及したといいますが、1889年時点ではまだ珍しかったかもしれません。


1905年 カフェの隣に7階建てのホテルがオープン

[Tivoli Cafe, Eddy Street] 1905 Mar.
SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY
San Francisco Historical Photograph Collection
http://hdl.handle.net/20.500.12352/islandora:122831

中央の2階の建物が「チボリ・カフェ」。写真だとカフェの左隣りに7階建てのホテルをオープンさせました。


1906年 地震と火事で焼失


1907 年 チボリ・カフェとホテル・ラーセンを再建

地震と火事による消失後に再建されたのは、一つの建物の中にカフェとホテルを備えたもので、1階がカフェ、2階より上がホテルになりました。サンセット地区あったラーセン氏の養鶏場(ラーセン・パークのすぐ西)から直送する新鮮な卵をつかった料理が提供されていました。

Vestkusten, Number 34, 25 August 1927

ホテル ラーセン
サンフランシスコ エディ通り 56番
(チボリ・カフェの上)
チボリカフェ
カフェ&ランチハウス
注目!農場から直送の新鮮な卵。チップは不要です。 店主C. G. ラーセン


[Tivoli Cafe, Eddy Street] 1930 Oct. 21
SAN FRANCISCO HISTORY CENTER, SAN FRANCISCO PUBLIC LIBRARY
San Francisco Historical Photograph Collection
http://hdl.handle.net/20.500.12352/islandora:122832

上の写真は1930年10月撮影で、ラーセン氏が亡くなってから2年経過した頃の写真ですが、建物やチボリ・カフェの突き出し看板もそのまま残っていたようです。

1905年と1930年の写真をみると、チボリ・カフェ含め、街全体が大きく発展している様子がわかります。

写真左上に映る、「TIVOLI」の大きな突き出し看板はカフェではない別の施設のものですが、この施設については後ほど触れたいと思います。

ラーセン氏の母国、デンマークのチボリ公園

Tivoliといえば、デンマークはコペンハーゲンのチボリ公園が有名です。1843年に国王の命を受けて「市民のための娯楽施設」として開設されました。Tivoliという言葉は、Tivoli公園=固有名詞であるのですが、現在ではデンマーク語で「遊園地」という意味としても使われるようです。

Tivoliの由来はイタリアにある

そもそもTivoliはコペンハーゲンに由来する地名ではなく、イタリア・ローマ近郊にあるTivoli;ティーボリを指すようです。古代ローマ時代から保養地として知られ、「ハドリアヌスの別荘」と「エステ家の別荘」の2つが世界遺産に登録されています。この地には古代ローマからルネサンスにかけての貴族のための別荘群が残り、技工を凝らした優美な噴水が至る所で水を踊らせています。

こうした言わば特権階級だけの楽しみの象徴であるようなTivoliを「市民のための」といってコペンハーゲンに持ってきて、国王の命で遊園地を開設してしまうデンマーク!

チボリ公園オープン時のヨーロッパ情勢

1843年のヨーロッパがどうだったかというと、もうウィーン体制が破綻する直前。1848年のフランス2月革命により波及的に起こる「諸国民の春」とよばれる民族運動も間近です。デンマークでも専制君主制から立憲君主制に移行しました。

このTivoli公園の開設の目的は、市民の興味を政治から娯楽に向けさせる、、、ということもあったのでしょう。19世紀前半は中産階級が成長し、顧客を増やした芸術家たちの創作活動が盛んに行われた、デンマーク黄金時代と呼ばれる時期です。童話作家のアンデルセンはTivoli公園をたびたび訪れては童話の構想を練ったと言われています。国王の思惑がどうだったにしろ、Tivoli公園という娯楽はデンマーク文化を深化することに役立ちました。

カール・ラーセン氏がアメリカに渡った経緯?

ラーセン氏はチボリ公園が開園した翌年1844年にオーデンセで生まれました。ニューヨークで数年間暮らした後、1869年にサンフランシスコにやって来たということなので、少なくとも1860年代前半にはアメリカに渡っていたと考えられます。1864年にデンマークはプロイセンとの戦争に負けて、国土の40%を失うことになるのですが、おそらくこれが移民となった契機なのではと思います。

ラーセン氏はコペンハーゲンのチボリ公園には訪れたのでしょうか?「チボリ」という言葉はカール・ラーセン自身やデンマーク移民の人々にとって特別な意味を持っていたのでしょうか。それとも、元々のイタリアのティーボリが欧米で流行していたのか。可能性はいろいろあります。

サンフランシスコにあったもう一つのTivoli:チボリ座

サンフランシスコには、ラーセン氏が1879年にチボリ・カフェをオープンする以前か同時期に、チボリを冠する別の施設が建てられています。“The Tivoli Opera House;チボリ座”です。実はラーセン氏のチボリ・カフェのすぐ左隣りにありました。1930年のチボリ・カフェの写真で一番目立つTIVOLIの大きな突き出し看板は、この「チボリ座」の看板なのです。

ちなみにチボリ座ではコミック・オペラ「ミカド」が上演されたり(1913年7月)、早川雪洲が訪れもしたようです。ここでは詳しくは取り上げませんが、当時の邦字新聞で確認できます。

チボリ座の前身はドイツ系移民二世がオープンした「The Vienna Garden;ウィーン・ガーデン」であり、それがいつからか「Tivoli Gardens;チボリ・ガーデン」と名前を変え、エディ通りに「Tivoli Opera House;チボリ座」をオープンしました。

特にチボリ座とラーセン氏の間に関わりがあったかどうかはわかりませんが、②で紹介したMara Ada Williams氏の回顧録によると、ラーセン氏のチボリ・カフェには、チボリ座の客や出演者がよく訪れ、賑わったようです。

チボリ座は所有者が変わりながらも経営が続いていきますが、1924年〜1930年3月の期間は「コロンビア劇場」に改名しています。ちょうど禁酒法時代(1920-1933年)に被りますが、オペラ座という形式がすでに古いものとされ、映画を上映する施設となったのです。ラーセン氏が亡くなった時やラーセン・パークが完成した時も、コロンビア劇場という名前でした。

「TIVOLI」という言葉自体は、デンマークを感じさせるものだけでなく、イタリアのティーボリを想起させる豪華さや娯楽とも結びつきそうです。

チボリ・カフェの閉店とラーセン・パークの開園

店主カール・ラーセン氏が亡くなったその月、スウェーデン語新聞「西海岸」1928年11月22日にチボリ・カフェ閉店の記事が掲載されていました。

しかし1929年1月に店主ラーセン氏のままのチボリ・カフェの広告が掲載が復活するものの、1ヶ月もするとなくなってしまいます。

そして、1929年2月17日に、ヨーコはラーセン・パークを訪れます。

まとめ

そろそろラーセン公園に関するトピックをまとめたいと思います。①優しきデンマーク人、②ツイン・ピークス・トンネル、③チボリ・カフェと3つの側面からラーセン氏の人物像や彼を取り巻く時代背景を見てきました。これは、あくまで私の感じたことですが、カール・ラーセン氏は開拓民の良心と思うのです。

急速に発展が進むサンフランシスコにいて、それは過剰な開発だと主張し、サンセット地区の原風景を少しでも守ろうとしたのだと。ツイン・ピークス・トンネル開通はちょうど第一次世界大戦のころです。アメリカその後禁酒法や移民法が制定され、時勢は目まぐるしく変化していきます。そんな時代のサンフランシスコで、カール・G・ラーセンは小麦とバターの香りが漂う焼き立てのデニッシュ、冷たいミルクのアイスクリーム、新鮮な卵料理を提供するチボリ・カフェの店主であり続けました。

3回にわたってカール・ラーセン・パークを紐解いてきました。日本人コミュティとは離れた話題になりましたが、ヨーコのいたサンフランシスコの時代背景を少し知れた気がします。ヨーコはこの後もラーセン・パークに何度も訪れます。そしてこれを読んだ私たちはチボリ・カフェのことも思い出すことでしょう。

最後に

デンマークといえば、1929年1月30日のヨーコの日記に登場する「Tin Soldier;すずの兵隊」はアンデルセン童話です。錫のさじからつくられた一本足の兵隊が、踊り子に思いを寄せる物語なのですが、切ない最後を迎えます。気になる方はぜひ読んでみて下さい。


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