わたしが見た、「水玉自伝」
『感情はすべて音に現れる』ということを、演奏するときに意識している。熱や誠意、強い意志を持った演奏をすれば答える。怒りは刺さる。恍惚から不安や焦りもしかり。誠意の無い演奏では感動を呼べない。相手は客であり、メンバーである。バンドとなれば、一人一人の感情はすべて同一のベクトルに向く必要がある。これは感覚的にできることもあるが、概ね意識して戦略を練らなければ一方向には向かわず、空中分解してしまう。バンドは常に流動的で、繊細でいつ壊れてもおかしくないものだと思うし、その構成要素は結局のところ人の集合であること変わりはない。
アーバンギャルドというバンドも同じだと思った。自らを偶像化したり、自伝を「赤い聖書」と見立てたりもするが、メンバーそれぞれは人間であることに変わりなく、聖書は独白であり回顧録であった。このバンドは、幾多ものInput/Outputを経て、様々なベクトルを模索し続け、今、強いベクトルをもって進み始めた、そして進み続けている人々の集まりである、という感想を自伝から得た。
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本書を読みながら、当時自分が見て感じたものを答え合わせしていった。感想文を書くことは決めていたが、どう書くかは決めていなかった。直近のことを語るには実体験が少ないと思ったが、単純に一ファンとして見てきたアーバンギャルドを書くのが良いし、それしかできない、と思った。只の思い出話を世間に公開するのは憚られるし、勝手な解釈も多いと思うが、これまでの体験を今改めて感想文として書く。
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初めてアーバンギャルド見たのは2009年、Youtubeでザッピング中に「女の子戦争」のPVを見た後、勢いで「少女は二度死ぬ」の通販を申し込んだ。届いたCDの確か封筒には手書きで「松永天馬」と記載されていたのを思い出す。当時、筋肉少女帯っぽい世界観だけど音楽性は当時傾倒していたcapsuleを筆頭にしたフューチャーポップに近いものをやりたい、但し、ユニットでなく、バンドで。と思い描いていたのに、そんなのバンドが目の前に現れてしまった。ずるい、と思った。ファンになるしかなかった。
Studio Cube 326という芝浦ふ頭のはずれのライブハウスで初めてライブを見た。ARTiSM主催のクラブイベントに出演しており、見たこともないような格好の客や出演者の中で「オギノ博士の異常な愛情」で松永さんが人形の中から出した羽が沢山舞う光景や、水玉病で放たれる無数のシャボン玉が嘘みたいに綺麗だった。ライブバンドとしての存在感に惹かれたことを今でも思い出す。
その後のライブを見ていき、特にclub asiaでのライブは回を重ねるごとに打ち込みのバランスが良くなっていたことが印象的だった。後にKeyboardマガジンの対談で谷地村さんがasiaの音響と相談して箱に合わせていることを知り、面白いと思った。代官山UNITのワンマンを見ながら、次第に大きくなりゆくバンドに期待が膨らんでいった。今思えば、推しのアイドルを応援する感覚に近い。当時、グッズとして配布されたステッカーは今でも機材に貼ってある。
ドラムが加わってから初めて見たのは2010年のミュージックDNAトーキョーいうイベントだった(詳細を調べたらmixiのイベントページが出てきた。告知文が攻めてる…。)。アコースティックドラムと電子ドラムの複合セットで、この時から演奏者は鍵山さんだったはず。ドラムを演奏している身としてはフレーズや音の選択に強い違和感を持ちながら聞いていた。今思うと、今思ったとしてもとても烏滸がましい感想なのだが、当時打ち込みの曲を生演奏に置き換えて演奏するバンドをやっていたので、許してほしいし、音源として発表した曲を実際に演奏したときのアレンジがどうなっているか、というのがライブを見に行く醍醐味の1つだとも思っている。また、このタイミング以降、過去の曲のレパートリーがロック色の強い楽曲でほぼ固定化されてしまっていたのもなんとなく残念に思えた。しかし、素直に受け入れられなかった潜在的な理由が、バンド内でもドラムを入れる、入れないに迷いがあったこと、詰まるところバンド内での意思不疎通が音に出ていた、ということなのだと自伝を見て気づいた。当時は不在のドラマーがいなくなったことに対する嫉妬でしか見られておらず、バンドとしての不況和音に気づけなかったのは若さ故だったと思う。
メジャーデビュー後はCDJ初回出演と、戸川純との2マン、ガイガーカウンターカルチャーツアーのファイナルを見たが、ライブの演奏はなかなか好きになれないままだった記憶がある。音源としての作品は良いのに、何故バンド演奏でこうなってしまう、と思っていた。個人的には、代官山LOOPでの対バンイベントでの演奏が今でも一種のトラウマとして脳裏に焼き付いている。キーボードが小さく抜けも悪く音色も明らかに間違ったものが出ている。ドラムが会場に対して大きかったし(大きいというより、刺さる音)、打ち込みと演奏のリズムが合っていなかった。手前で出演していたチャラン・ポ・ランタンがアーバンギャルドの客を完全に取り込みにかかっていたこと、なおかつイベント自体が押して進行していたこともあり、松永さんの歌もMCも焦りがあるように見られた。浜崎さんが喋っていた記憶は無かった。なるべく出口付近に構え、アンコールのももいろクロニクルが終わるとすぐに会場を出た記憶がある。出た後会場に暫く目を向けていたが、他に出てくる人がいなかったのも辛かった覚えがある。このライブの後のツアーで、谷地村さんが解雇された。この一報でこれまでのバンドの違和感をようやく理解したし、納得できた。感情はすべて出る音に現れる、ベクトルが合わない演奏は演奏ではなくなる。それはプロでもそうなのだ、と思った。
谷地村さん解雇直後に行われた筋肉少女帯との2マンは、この不穏な状況は解消されて、強い意志が現れた良いライブだった、もうアーバンギャルドは大丈夫かもしれない、おおくぼさんはパフォーマンスや音作りがとてもくっきりしていて心地よく、打ち込みとは差別して自分のパートを弾いていたと思った。この人がそのまま後任になればよいけど、立場としては難しいよな、と思いながら帰路についた記憶がある。加入が決まったときは驚きと同時に喜びと安心があった。この経緯に纏る、ザ・キャプテンズの傷彦さんの人柄が各メンバーの文から伝わってくる。当時、ケイ伯爵を送り出した際のメッセージに嘘偽りは全くなかったのだと感銘した。
話を少し前に戻すと、鍵山さんが演奏するアーバンギャルドを聞いたのは、この2マンライブが最後になってしまった。当時抜けたのは意外だった。確かに、松永さんの文書にあるように夜想での鍵山さんのインタビューに対する回答は違和感たっぷりだったが、ガイガーカウンターカルチャー、鬱くしい国の楽曲が、明らかにドラムを含めたバンドスタイルを意識したものが多く、これからの展望としての彼の自己批判だと当時は思っていた。自伝でこの答え合わせがようやくできたし、もし当時のライブを見ていたら納得だったのかもしれない。2014年のクリスマスライブでガイガーカウンターカルチャーの楽曲が1曲も演奏されなかったのは当時のメンバー不和が原因であり、クリスマスを大切な日として捉えている浜崎さんの意向なのだろうとライブを見た後に思っていたが、そもそも松永さん、浜崎さん双方が作品自体を成功作として考えていなかったのが盲点だった。ガイガーカウンターカルチャーは怒り、不安の曲が多いと思う。
個人的にはその後のサポートとしてミワさんが入ったのは大きい転換の1つだと思っている(自伝では何故か彼について触れられていなかったが。)。初めて聴いたのは鍵山さん脱退直後のclub asiaでのふぇのたす、ゆるめるモ!との3マン。以降のライブでも、音量やフレーズの選択が的確で、かつ演奏時のパフォーマンスも欠かさない。以降は安心してバンドセットを聴けるようになった。後に天使des悪魔のライブCDが出た大きな要因の一つだとも思っていた(もしもこのライブがドラムレス、もしくはミワさん以外のサポートドラマーでのライブだったとしたら、アルバムとしては出さなかった気がする)。当時ライブを見ながら、こんなにいいドラマーが近くにいるのに、ドラマーを募集してる、他を探しても中々いないとのに、と思っていた。そんなことを思いながらも、ドラマー募集用のコンクリートガールの音源を完成させようとスタジオに通った時もあったが、締め切り手前でインフルエンザに罹ったりしたことでこの道は途絶えたということはこの場で一応書いておこうと思った。
その後は少女KAITAIのスプリングセールツアー、2018年のKEKKONSHIKIの2つしかライブは見られていないが、いずれもバンドセットとして完全に安定したライブを見られた。プロの仕事だと思ったし、純粋にうれしかった、ライブを見に行けてよかったと思った。
このあたりはライブには行けなかったが音源は継続して聴いていた。昭和九十年の平成死亡遊戯はこれまでのアーバンギャルドのバラードとは少し趣向が変わっていたが、感動は大きかった。昭和九十一年は出張中の飛行機の中で聴いた。大破壊交響楽を聴いたとき、四月戦争や救世軍の熱量を持ちながら、ガイガーカウンターの夜の持つ怒りや悲しみを乗り越えて、これまでの大都会交響曲のオマージュとして発表していたであろう曲を改めて昇華した曲なのだろう、これまでファンでいられて、今この曲を聴けて良かったと心から思った。ファンが喜ぶ楽曲であることに間違いはない。少女フィクションの少女にしやがれを聞いたときも同じような感想を持った。
先日の平成死亡遊戯の配信でようやく直近のライブを見ることができた。これまで瀬々さんがフレーズ、音色、音量バランスをいかに選択してギターを弾いていたかをしみじみと感じた節もあったが、それと同時に今の3人編成での演奏からTOKYO POPを出したこと、今向かおうとしているベクトルをやっと理解し消化できた気がしている。
『いつまでもあると思うな、親とバンド』という言葉が、自伝を読んでから、いかに重い言葉でを思い知った。やはり、バンドは常に流動的で、繊細なものなのだ。
でも、幾多の苦難を越えて、今強いベクトルを持って進み始めたアーバンギャルドは、これからも走り続けるのだと思うし、走り続けてほしい。
私が若かりし頃から思い描いていたバンドは、今でも、あなたたちしかいない。