外側に神を見ることで忘れなかったもの
神、仏、精霊、天使、龍、悪魔、妖怪など。
外側に想いを向ける先があったから、内側のそれらを忘れないで済んだ。
そんな滅茶苦茶な。
だけど私はそう感じ、そのように世界を見ているのでした。
美しい祈りがあったから、観音様は観音様になっていつも人間へ手を差し伸べる慈愛の存在となった、という理解です。
では観音様はいないのか?といえば、わたしはいると感じます。
見えないもののことは何とでも言えますから、これは真理ではないですが世界観のひとつととらえて頂きたいとおもいます。
・もともとの観音様となったエネルギーはとても高圧で音のような音であるような、光のような暗闇のような、そんなふうにみえます。
これは、わたしの受け取るちからの限度を超えているからですし、受容する器をこぼれていくものが多すぎてそのように見えるのだとおもいます。
・そのエネルギーを人が使えるように再現性のある情報として留め置いた場所があるように感じます。情報の場、集合意識の雲、と呼んでいます。
その場へ行くには音や言葉が鍵になっている(紐付けてある)とおもいます。
・観音様、と想った時につながる場は多岐にわたります。信仰の強さと信頼は、加護やちからを受け取る方法ですが、最も強力なのは疑わないことだとおもいます。観音様はわたしたちへ救いの手を差し伸べてくださることを疑う余地のない当たり前の恵みとしてただ感謝があるという状態。
外側へ神や仏を象り祈りを捧げてきたことで、人間離れした、人間にはあり得ない、神や仏の慈愛や強さを外付けで記録した。
そしてじつは、崇拝し祈ってきたそれらは内側にある。
悪魔は発明された存在とおもいますが、モデルになったエネルギーはあります。
誰からも愛されない、きらわれて、あっちへ行けと言われてきた存在やエネルギーや現象が集まり場をつくる。
根源的な、原初の恐怖。これが悪魔のモデルになったエネルギーだと感じています。
そこへ姿と名と背景をあたえてキャラクターにすれば、恐れる対象ができる。
(恐れる対象の悪魔と、モデルになったエネルギーとでは場が異なります)
恐れる対象ができた方が安心するかもしれません。畏怖の念と恐れを捧げ続けて、それはまるで生きているようにみえますが、燃料がなくては存在できません。
忘れられたら、その生命は存続できません。
恐れ畏怖するひとびとの想いが捧げられなければ終わるのです。
内側の豊かさを外側にあらわして生きていきましょう。
内側が豊かだと自覚されると外側へ自然にあらわれていきます。
社会への適応は大切ですが、
社会にまだないものを持っていて生まれているわたしたちの内側にあるものへ、疑いを持たなくても大丈夫なのです。
現在の社会を 自分の内側にある想いや直感で見たときに、色々とあきらめるようになっています。
そのほうが効率がよさそうですし、生産的ではないように見えるからです。
迷惑をかけてしまうと感じるからです。
そのように出来ています。
革命や抵抗、というよりは
新しい世界をつくりまるごと移行する。
そんなイメージでご自身の内側と共に進まれてください。
通りすがりの者ですが、皆様のよろこびをお祈りしています。
7/22