
The Story of One Sky ⑤ ディマシュ:総合感想
Part.4:総合感想
(Dimash 09)
(4,446文字)
(第1稿:2022年12月26日~12月30日)
動画:『Dimash - The Story of One Sky』 by Dimash Qudaibergen(公式)
2022/09/25
【この主題に頭から突っ込むアーティストがいようとは】
それでは最後のパートだ。
このMVを初めて見た後の感想は、イントロダクションにも書いたけど、
「なんという歌だ、この1曲でディマシュは今まで自分が歌った全ての歌を過去のものにしてしまった」
だった。
それまでは、ディマシュのYouTubeチャンネルにある曲も、中国のTV番組『Singer2017』も、『スラヴィック・バザール』(2015)の国際コンペの歌も、ちゃんと「現在進行形」だったのに、このMVリリース以後の1か月ぐらいの間、完全に「過去完了形」になってしまって、どないしょーと思った。
今から思えば、それは単純にこの『One Sky』を自分の耳が聴きたがって暴れてただけだったが、それくらいこの曲でのディマシュの歌唱の「進化」に驚いていた。
そして、もうひとつ。
この主題に、こんなにもまっすぐに突っ込んでいくとは……。
なんという勇気。
なんという気概。
なんという純真さ。
長年、えーと45年ぐらい? 洋楽を聴いてきた私からすると、
「ありえねえ!」
というのが正直な感想だった。
「主題」というのは、以下のようなことだ。
我々人類は、第二次世界大戦以後、現在の文明始まって以来の豊かさを享受しているが、その豊かさは地球が人類に提供できるエネルギー量を上回ってしまい、人類と地球のエネルギーバランスが崩れてしまった。
それは、人類の叡智よりも愚かさが上回ってしまった結果でもある。
愚かさの最も大きな特徴は、個人が持つ「時間軸」が、過去の方にも未来の方にも向かっておらず、「今現在」にしか無いということだ。
それを「刹那的」と言いますがね。
その「刹那的」なあり方が、地球を苦しめているのではないか。
(実際には、苦しむのは地球ではなく、現在の人類と生態系なのだが)
未来を考えないということは、人類の未来、すなわちこれから生まれてくる人類の子供達のことを、なにひとつ考えないということだ。
そのことが、未来の子供達を苦しめるのではないか。
人類は、非常に居心地の良い、今の「阿呆」な状態を、そろそろやめるべきでないのか。
少しばかり目を覚まして、「叡智」の片鱗をちょっとだけでも入手して、その「叡智」がもたらす居心地の悪い「賢さ」を全員で少しずつ分担すべきではないのか。
まあ、そんなような事かな。
なぜこれが45年洋楽を聴いてきた私から見て「ありえねえ!」主題なのかというと、20世紀末から21世紀初頭の、ある地点以降のポップス/ロック界(当然日本も含む)自体が、そういった「刹那的」な状態になってしまったからだ。
その地点がいつで、きっかけが何だったかを指摘することはできないが、個人的には、音楽業界の何らかの偏重と、音楽が巨大マネーを生み出すようになったことがその原因だろうとは思う。
ある時期から、音楽の一番上のレイヤーに「お金の匂い」が漂うような気がして来たのだ。それまでの音楽にも「お金のレイヤー」はあったが、それはずっと下の方に慎重に隠されていたものだ。
つまり業界は、リスナーが「刹那的」であればあるほどマネーは増える、と踏んだのだ。
そうやって音楽業界は、特にロック・ミュージックは、「はみ出し続け、転がり続ける」というありようを失い、はみ出して転がるふりをして真ん中におさまってしまった。
【ディマシュの「疑問」】
ディマシュは、人類の現在の文明、人類の現在の精神状態、人類の現在の意味不明な「醜さ」に対して、
「どうしてなの?」
と、若者らしい疑問を提示した。
そしてそれは、当然ながら現在の音楽業界にも向けられている。
このMVの13分以上もある「長さ」と、いわばインディーズのいちシンガーが、その立場のイメージからはありえないような巨額を投じてこのMVを作ったという「事実」が、それを感じさせる。
もしディマシュが英米の大きなレコードレーベルと契約していたら、13分40秒などというMVの制作はおろか、10分もある楽曲のシングルリリースさえもできなかったかもしれない。
それくらい、このMVは「主題」も「MV」も「音楽」も、既存の音楽業界の枠組みを踏み外し切っている。
そして、還暦を過ぎた身としては、過去の音楽業界をある程度知っているがゆえに、 “欧米の” 音楽業界におけるこのMVの真の価値を、正確に推し量ることが出来ない。
【オーソドックスと、時間をかけること】
いままでのポップス/ロック業界では、ものすごく単純化して言ってしまうと、ミュージシャン本人が意識するしないに関わらず「奇をてらうこと」が天才の証しのようなところがあった。
そして、それが非常にもてはやされた。
だが、ディマシュはこのMVと音楽で、なにひとつ「奇をてらったこと」をしていない。
映像も音楽も歌唱も、オーソドックスな道筋を、ただひたすら時間をかけて積み上げたに過ぎない。
ディマシュ自身のすさまじい音楽的な能力についても、音楽向きな体質で音楽好きな人間が、現在まで生きてきた年月のすべてをただひたすら音楽に捧げた結果、ごく自然に発生した質の高さに過ぎない。
そしてそれは、「刹那的」なあり方とは真逆の方法論だ。
なのに、というべきか、だからこそ、というべきか。
映像部門のこのクオリティ、特に映像と音楽のリンクのさせ方、ストーリーの整合性と意味の豊かさ。(普通のMVはもっと壊滅的に貧弱で、意味が薄い)
音楽部門では、メロディの単純さと平易さ、なのにどこかで聞いたことがある感じは全然しない。(強いて言えばヘンデルっぽいバロック音楽とポップスの融合か)
歌唱に至っては、上手いのはわかり切っているが、さらにその上を行く研鑽の度合い、などなど。
本当に、異常なほどの完成度の高さだ。
そして視聴者は、MVのストーリーが分からなくても、ただちにディマシュが音楽に込めた思いを受け取ることが出来ている。
この完成度の高さゆえに、それを導き出したのが音楽の最も大きな要素である「時間」を充分に使って制作した結果であるがゆえに、その「時間」がもたらす恩恵に見向きもしなくなった現在の欧米(と日本)の音楽インダストリーには、このMVと音楽の価値を理解することはできないのではないか、とさえ思う。
wwⅡ以後の「大量生産の時代」とはすなわち、「時間の使い方」を知らない人間達の苦肉の策であり、ある種の感覚的幻惑、ごまかしでしかなかった。そして「奇をてらうこと」は「大量生産」への反抗ではあったが、根本的な解決策ではなかったのだ。
【ディマシュに回答できない年長者】
以下は非常に個人的な感想だが、私がこのMVを最初に見終わったあと、ディマシュに対して「申し訳ない」という思いがこみ上げてきて、我ながら驚いた。
彼の「どうしてなの?」という問いに、私は答えることが出来なかったからだ。
こんなにも真面目で優しく可愛らしい若者に、そして彼に連なる今の若い世代に、彼がこの「主題」で作品を生み出す元となる気持ちを抱かせてしまうような世界を、我々年長者が作り出したこと、もしくは作り出すことを許してしまったことへの自責の念で、ひと晩眠ることが出来なかった。
私の世代は、20世紀後半の豊かさを、個々人がそうだったかどうかはともかくとして、人生の前半期に最も味わった世代に当たる。その私に対して、WWⅡの敗戦を経験した父が「日本を復興させる仕事をするのは本当に楽しかった、だからこそ、下り坂しか無いであろうこれからのお前達に申し訳ないと思う」と言ったことがあった。
その時の父の気持ちが、今ならとてもよくわかる。
【品性の水準】
だが、以下もまた私の正直な感想だ。
今の若い世代に、「ディマシュ・クダイベルゲン」というシンガーがいてくれて、本当によかったと思う。
私の世代は、豊かであったがゆえに、彼のように現在の文明の限界を超えて「人類の品性の水準」を引き上げてくれるような大衆文化の担い手を得ることはできなかった。
また、「共生」「共存」という概念を知ってはいたが、「分断」にばかり目が行き、「共生」をどう実現するかというアイデアには、ついに至らなかった。
だがディマシュは、神から与えられた才能への、おそらく生涯に渡って研鑽を続けようとする本人の決意、生まれた土地の持つ意味や、周りの人々の文化芸術に対する真剣さに答えようという姿勢、異常なほどの音楽への愛と情熱、それらによって、私の世代が持つ「ミュージシャン」という概念からは、とうてい考えられないほど洗練された品性を持つに至った。
そして、「不可能」と思われた西洋と中東の「共生」のイメージを自身の存在そのもので現実化し、私の世代が無意識に持っている「中東」あるいは「イスラム文化」への無知から発生する恐怖と偏見をあっという間に消し去ってしまった。
「人間の品性の水準の引き上げ」がディマシュの表の業績であるならば、「イスラム文化のイメージのニュートラル化」が彼の裏の業績になるであろうと、私は感じている。
【あの少年はあなたでもありわたしでもある】
このMVの物語では、最後に出現する「少年」を、主人公の息子、または主人公の生まれ変わりとしているように見える。
だが、この物語が「寓話」または「おとぎ話」に近いことから、おそらくディマシュ本人はこの「少年」を誰とも特定してはいないと思う。
平和と友愛、共生への道を歩むことに決めた魂を持った人間であれば、老若男女を問わず誰でも、このMVを見たあなたや私でも、等しく皆、この「少年」なのだと、彼は言いたいのだと思う。
そして、この世に生まれてくる全ての赤ん坊は、そのような魂の器となるべく生まれてくるのだと彼は言いたいのだ。
「ディマシュ・ニュース」の解説では、生まれた赤ん坊を「世界を救う特別な存在」としていたが、生まれてくる全ての赤ん坊はみな、その能力を潜在的に有しているものだ。
「世界を救う」方法はいくらでもあり、各自がそれぞれの場所でそれぞれが出来る事をやれば良いだけなのだから。
以上、長々と、ホントに長々と書き連ねたが、言いたいことは案外と次のひと言だけだったりする。
「ディマシュ、凄い!」
それと、
「次の作品、どーなるの……?」
(Part.4「総合感想」、終了。
(全編終了。)
お疲れさまでした!
全部読んでくれて、本当にありがとうございました!!!
ディマシュをよろしくねっ🌷