ディマシュという名のテンペスト:『行かないで』日本語バージョンからの派生妄想考察
(Dimash No.2)
(11,232文字)
(第1稿:2022年7月3日~6日)
(改稿 :2023年6月24日)
タイトル画:『ミランダ』 by ジョン・ウィリアム・ウォーターハウス
【テンペスト、来たる】
いやいやいやいやいや、もうね。
「開いた口がふさがらない」とはこのことか、と。
「ディマシュ」という現象は、音楽、特にボーカル物が好きで長年聴いてきた人間にとっては、自分の「ボーカル」に関する既成概念をことごとく粉砕され、頭を抱えて寝込んじゃうような案件だ。
1番最初にYou Tubeのお勧めに出てきて聴いたディマシュの歌は、『Ave Maria』だった。
だが、この歌では私はまだ気がつかなかった。
その歌手の「見た目」から、てっきり少年合唱団のソリストで、15才ぐらいの少年が出て来て歌っているのだろうと思いながら聴いていた。自分が中学生時代に「ウィーン少年合唱団」のLPレコードを集めていたので、間違えたのだ。この超絶ハイノートも声の美しさも、ボーイソプラノなら当然のことだろう、と。
ところが、ふと気になったことが。
この少年が15才ぐらいだとすると、後ろのコーラスの大人達や、画面左にあるピアノとのパース(遠近法)と、合わなくないか?
もしかしてこの男の子、超絶に背丈がデカくないか??
つまり、子供じゃない……だと!???
だとしたら、話は全然違うぞ。
その次にお勧めに出てきたのが、同じ少年が歌う別の曲、この『行かないで』日本語バージョン。
あら、髭剃り跡があるじゃない? と思っているうちに歌が始まった。
(この動画、3回目の登場ですが、推し活ですゆえ何度でも登場)
この動画を初めて見た時、この歌手の「物語を語る」その能力のあまりの高さに、私はほぼ理性を失っていたと思う。
歌う彼のその横顔に釘付けになり、固唾を飲んでその「語り」に聞き入っていた。
サウンドはあれほど静かなのにもかかわらず、動画を見ている間中、洪水のように、あるいは雪崩のように、あるいは暴風雨のように、TV画面から押し寄せてくる、大量のイメージと意味とエモーション。
私はその激しい嵐の真っただ中にいるというのに、この嵐はこれまでどんな文化からも味わったことがないほどの豊饒さ、甘美さ、優しさ、愛らしさ、美しさを持っていた。
この嵐がいつまでも終わらないことを真剣に願ってしまうほどだった。
そして、彼に出会ってからこの動画をもう何百回と見たに違いないのに、今でも変わらず同じ気持ちになる。
ともあれ、第1声、たった2拍半、わずか単語ひとことでボーカルに魅せられたのは、実に45年ぶりの出来事だった。(と、歳がバレる…)
【ディマシュの高度すぎる技と、それにまったく対応できない凡人の脳味噌】
だが、頭を抱えるのはここからだ。
この1曲の中だけで、いったい何種類の歌のジャンルを使ってて、何種類のボーカルテクニックを使ってて、何種類の声のトーンを使ってて、何種類の感情表現を使ってるんだこいつは!??
しかもだよ! 年齢、結構行ってるじゃないですか?
それであの、変声期前よりもさらに高くて澄み切った、超絶ハイノートですか!???
次から次へと、自分にとって「ありえない組み合わせ」の歌唱が出てきて、自分が持っているボーカルの既成概念が、ぜーんぶ、壊れました。
もうね、ある意味「ディマシュという名のテンペスト」に見舞われたようなもんです。
しかも、声が非常にクリアで、なおかつ耳に非常に優しくて、何回繰り返して聞いても疲れない。
非常に居心地がいいのである。
テンペストなのにね。
もう理解不能の異常事態。
ディマシュの歌は、どの曲を聴いても、正確な音程、正確な音価(音の長さ)で、音楽のベーシックな技術の部分で不安をまったく感じない。なので、歌の途中で「あ、音程が…」とか「あ、ここでブレスが途切れるの?」みたいな余計なことを考えなくて済む。つまり、その歌に没頭するのを当の歌手から邪魔されることが無い。
超絶に高いソプラノから、超絶に低いバスまでカバーしていて、この恐ろしく広いレンジをあまりにも軽々と飛び回る様子は、とても人間業(わざ)とは思えない。
にもかかわらず、彼が今までにものすごい鍛錬・訓練を積んでいることも察せられる。
しかも、少年合唱団のソリストと間違えるほど、どの音階の声も若々しく新鮮であること、特に年齢とともに割れやすい高音域がまだ新鮮な状態にあることに驚く。成長期の彼の周りの大人に非常に聡明な人物がいて、彼の声帯を守っていたような気配がある。
彼のことを「外星人」とか「アウトオブユニバース」とか、いろいろな形容詞で語られているけれど、むしろ、歌が大好きな人間の「理想が現実化」して「目の前で服着て歌ってる」って言った方がいいかもしれない。
こちらとしては、突如出現したこの「理想の形態」に、なかなか順応できない自分の脳味噌に困り果てるというありさまで、実際に脳が納得するまで3日ぐらいかかってしまった。
そのあとはもう、深い深~い「ディマシュ沼」にまっしぐら。
人間の持つ素晴らしい可能性を見せられてしまい、自分にとってディマシュは、音楽の世界の非常に大きな「希望」の象徴になってしまった。
【ノンバーバル・コミュニケーション (非言語コミュニケーション)】
だが、何よりも凄いのは、ディマシュ本人にとってそういった歌唱のテクニックは実は二の次であって、一番重要なのは、その歌が持っている「エモーション」のポテンシャルを最大限に引き出すことだと彼が考えているらしい、ということだ。
『行かないで』(日本語バーション)の一番最初の「何も見えない」で、あの魂を持って行かれそうな吐息の声にいつも驚嘆する。
だが、それと同じくらい印象的なのが、歌うディマシュのたたずまいだ。
イントロの間の彼には、そんな印象は全くなかったのに、歌い始めたとたんの、この寂寥感。
歌の主人公が感じている、この世界にただ一人で取り残されたような淋しさ、無力感、ひとりぼっちの心細さが、しみじみと伝わってくるようだ。
彼の歌声だけでなく、喜びと苦悩を行き来する彼の目の表情、自分から望んだわけではないであろう孤独の中に立ち尽くしているかのような、力の抜けた顎や、肩の雰囲気。
おそらくそれらはすべて、歌っている声を出すための身体の動きではあるのだ。
だが、歌の全域を通して、目線の角度や方向、肩の動き、手や指先の動き、それぞれの身体のパーツをどう動かし、どう動かさないかというタイミングなど、彼の身体の動作と、その瞬間に彼の歌声で語られているストーリーとの間に、ほとんど、あるいはまったく齟齬が無い。
彼がオペラの勉強で演技も身につけただろうとは思うが、プロのオペラの舞台と比べてみても、それ以上の何か特殊な彼の性質によって、表情や身振りが出ているように見える。
これは何もこの歌だけに限ったことではなく、ライブであろうと、TV出演であろうと、MVであろうと、表現手段に関わらず、常にそういう状態なのだ。
中にはいわゆる「口パク」、「リップシンク」でのTV出演などもあるが、その状態であっても、声と身体動作に齟齬がない。
前々回に書いたような曲のストーリーは、私がつじつまを合わせるように妄想したわけではない。
彼の動作のひとつひとつが、私にそのように読み取らせているのだ。
ここまで「ノンバーバル・コミュニケーション」が発達しているというのは、本当にすごいことだと思う。
【目で聴く音楽】
我々は、音楽を耳だけで聴いているわけではない。
音階は我々の骨を鳴らし、音の粒は我々の皮膚を撫でていく。
そして我々は、「目」でも音楽を聴いている。
体の動きのリズム感、ムーブメントの持つメロディ感など、演奏者の動作からも、音楽を感じているのだ。
ミュージシャンは実は、「見た目」がものすごく大事である。
美男美女かどうかではない。
その姿かたちや動きに音楽を感じるかどうか、彼らの音楽と彼ら自身の存在が一致しているかどうかなどを、我々は無意識下でわりとシビアに判定しているのだ。
そして現在我々は、ネット回線と電気によって、音楽を体験する。
20世紀には、録音再生という技術によって、いったん音楽とビジュアルは分離された(この場合ライブは当然除外)。好きな洋楽バンドのTV出演を見るなど、当時は奇跡に近かった。(なので文通までして海外のファンからビデオテープを入手したりしていた。)当時の私はそれが当然だと思っていたが、20世紀末から様相が変わり、ヴィジュアルが音楽に付随してきた。
現在は「家に居ながらにして」という進化はあるものの、我々の音楽体験は、昔々、聴衆が音楽家のいるところにわざわざ出向いて行き、音楽とビジュアルの両方を楽しんでいた「かつての時代」に、先祖返りをしているのだ。
そんな中、こんなにビジュアル的に「ノンバーバル・コミュニケーション」に優れたシンガーが出てくるというのは、結論から言っちゃえばまあ、当然っちゃー当然のことなんだけど、ここまでのアップデートがこんなに突如として起こるとは、私は考えてもみなかった。
【ゲームのビジュアルと、ノンバーバル・コミュニケーション】
私が今までに「ノンバーバル・コミュニケーション」を一番楽しんだのは、1994年、家庭用ゲーム機の初代「プレイステーション」がソニーから発売され、登場人物のビジュアルがドット絵の「2D」から、粗いポリゴンの集積ではあるが「3D」になった頃だ。
のっぺらぼうに近いお人形のボディのわずかな機械的な動きに、妄想を駆使してそのキャラクターの感情や考えを想像しては楽しんでいたものだ。
初代同機の専用ゲームとして、「ファイナルファンタジーVII(FF7)」が1997年1月に発売された。
このゲームの美しいCGワーク、心理学的でありスピリチュアル的でもあるストーリー、繊細で心を掻き立てる音楽。そういった豊かな物語性を持ったこのゲームは、「総合芸術」的な領域に入り込んでいた。
今では家庭用ゲームやPCゲームは、すさまじいビジュアル進化を遂げている。
ひるがえって、音楽業界全体の技術的かつ創造的な「取り残され感」のすさまじさったらもうね。
21世紀に入ってからは、もちろん20世紀から引き続いて良いミュージシャンは大勢いるものの、内外のメジャーな業界全体を押しなべて見てみると、もう惨憺たる有様であった。(←年寄りの個人的な感想です)
そこへ、突如現れた、この男の子。
私が音楽を聴く時の、ありとあらゆる不満点をすべて解消し、それだけでなく、夢物語でしかなかった「オールジャンル・アンバイアスド・ミックス」(全てのジャンルを偏りなくミックスすること。今創作した言葉なので検索してもありません)などという荒業まで身に着けて、出現したのだ。
そして、さらなる神業が、彼の身体表現が持つ「ノンバーバル・コミュニケーション」の異常な質の高さだ。
彼には、それをすることに対する心理的ブロックが何も無い。
これもまた、驚くべきことだ。
【プレイステーション世代と、承認欲求の無さ】
先程も述べたように、インターネットの回線により人々はそれぞれ異なった場所で、そして異なった言語で音楽を聴く。
であれば、ミュージシャンの身体表現が、歌詞の言葉ほどの局所性が無い分、非常に重要な要素になることは想像に難くない。
そして、偶然なのか必然なのか、ディマシュが生まれたのは、初代「プレイステーション」が発売されたのと同じ、1994年だ。
先ほど書いたTVゲーム「FF7」が持っていた、文化やジャンルのオールラウンドなミックス具合が、なんとなくディマシュに通じるものを感じる(時系列的には逆ですがね)。
そして、ディマシュ自身のキャラクターは、「個体の特殊性をとり除いて洗練され、普遍化された」物語のキャラクターのようなテイストを持っている。
そのためか、彼の歌を聴く時の歌の主人公に対する自分の感じ方が、TVゲームのキャラクターを動かしている時の「自分の分身」感、つまりキャラクターを通して実際にその世界を体験する感覚とよく似ているのだ。
ちなみに、この1994年生まれの有名人には他に、ジャスティン・ビーバー、ダコタ・ファニング(女優)、RM(BTS)ジェイコブ・コリアー、ハリー・スタイルズ、羽生結弦、そして、大谷 翔平がいる。
当たり年かと思うほどの顔ぶれだ。
この世代には、自身をビジュアル化し、物語化することに対するセンス、あるいはくったくのなさが、生まれながらに備わっているのかもしれない。
さて、さらなる驚きが、彼の「ノンバーバル・コミュニケーション」にはある。
旧世代の多くのシンガーにとっての身体表現には、「承認欲求」というやっかいな願望が隠されていた。
だが、彼にはそれがない。(注1)
ごく自然に、喋る時にたまたま動作が出てしまったかのような軽さで、曲の内容を表現する表情や体の動きが出ているのだ。それもこれも、自分の中にある、あるいは曲の中にあるエモーションを表現したいがためであって、ほかの理由を感じない。信じられん。
それを可能にしているのは、曲の世界への「深い洞察力」と、作者がその曲に込めた魂への「強い共感力」という、彼の能力なのだと思う。
(追記:2023年6月23日)
ディマシュの「承認欲求の無さ」は、もしかしたら彼が近代化直前のカザフスタンで、本人が親の承認を必要としないような愛情深い家族関係と、学校の先生などの周りの大人に相当大事にされて育ったらしいという成育歴から来るのかもしれない。
私が知る20世紀のロック界というのは、マイナスからの起死回生、環境への復讐、不遇な家族関係からの飢餓感などがもとになった表現や表現者が多かった。
ディマシュのように家庭的な愛情に恵まれたロック系ミュージシャンは、20世紀中には非常に珍しかったが、今でも意外とそうなのだろうか?
私はディマシュに遭遇する以前から、特に21世紀にはいって以後、英米の音楽に対する関心を全く失っていたので、その辺りはよくわからない。20世紀の最後の5年ぐらいからずーっとTVゲームばっかやっててゲーム音楽しか聴いてなかった。なんてこったw
【バーバル・コミュニケーション】
また、この歌の理解に欠かせないのが、ディマシュがこの歌を「日本語」で歌った、ということだ。
自分の母国語で歌を聴く、ということがどれほど深い意味を持つのかを、正直言って私はこの動画を見るまで、あまり気がついていなかった。
外国人が日本語の歌を歌って有名な曲と言えば、
・アダモの『雪は降る』(1969、原曲はフランス語1963)
(雪は降る)https://www.youtube.com/watch?v=jzSGQxFESSA
・グラシェラ・スサーナの『サバの女王』(1972)
(サバの女王)https://www.youtube.com/watch?v=S_q4JVhYev0
・ロックバンド「クイーン」の『手をとりあって』(シングル、1976)
(手をとりあって)https://www.youtube.com/watch?v=Ge18n2JCwBs
・ロックバンド「スコーピオンズ」(ドイツ)が来日公演で歌った『荒城の月』(1978)
(荒城の月)https://www.youtube.com/watch?v=FugqhQRiwpU&t=228s
・「クイーン」のヴォーカリスト、フレディ・マーキュリーが歌った『La Japonaise ラ・ジャポネーズ』(ソロアルバム「バルセロナ」1988)
(ラ・ジャポネーズ)https://www.youtube.com/watch?v=DYIp-7-4MUk
などが思い当たるが(すみませんどれも古くて)、頑張って歌ってくれてるけどやっぱ外国人の歌だなと感じてしまう。
だが、だよ。
なんですかこのディマシュの日本語は。
完璧じゃないですか。
途中、何カ所かちょっとだけ外国語風にはなるけど、それも許容範囲内のものだ。
歌詞の肝である「泣いてた」「悲しいんじゃない」「うれしくて」「行かないで」「このままで」などなど、どのフレーズも、日本人以上に日本語じゃないか。
ディマシュのこの歌での日本語は、音として正確であるばかりでなく、歌の文句として使われる時の言葉のある種の詩情、普遍性、ひとつの単語が持つ「意味の重複」も含めて、言葉の持つ「3D」的なイマジネーションの豊かさを、きちんと表現しているように聞こえる。
そのため、前々回のようなとんでもない妄想が私の頭に浮かぶほど、豊かなイメージに満ちあふれている。
歌手の持っている「言語能力」は、実はとても重要だったのだ。
会話として喋れるかどうかではなく、言葉が持つ意味やイメージを正確に把握し、そこに自分の心を乗せることが出来るという能力。
それはすなわち、我々聴き手の「歌の理解」の度合いと、深く関わる問題でもあったのだ。
もしかして、ディマシュと日本語は、ものすごく相性が良いんじゃないか、という気がする。
また、この原曲(作詞/松井五郎、作曲/玉置浩二)(注2)が、もともと最小限の言葉のリフレインと、長い母音のロングトーンで出来ているので、ディマシュの異常に多彩な声の表現と、彼が歌に込めた意味の深さを受け入れる余地が非常に大きかったことが幸いしている、とも思う。
【『荒城の月』のメロディの出現】
実は、上の日本語の項目を書くために集めていた資料の中の、スコーピオンズの動画『荒城の月』を聴いていて、あっと気がついたことがあった。
それが、妄想感想などにも少し書いたが、ヴォカリーズの途中のメロディと『荒城の月』(注3)のメロディとの一致だった。
・ディマシュの『行かないで』(日本語バージョン)のヴォカリーズ
5~6小節(この箇所のメロディを4つに分けた時の3番目のメロディ)
ソ ー ド ミ♭ レ ー - ド ラ♭ー
G ー C E♭ D ー - C A♭ー
・『荒城の月」の最初のメロディを『行かないで』のキ-に合わせると、
ソ ソ ド レ ミ♭ レ ド ラ♭
G G C D E♭ D C A♭
は る こ う ろ う の は (「なのえん」と続く)
これには、非常に驚いた。
原曲の『行かないで』と、中国語の歌詞をつけてヒットした『Autumn Strong』(歌:ジャッキー・チュン・張学友、1990)には、このメロディは無い。
ディマシュが中国語バージョンの『行かないで(Autumin Strong)』を歌う時と、今回の日本語バージョンにだけ、このメロディが出現している。
実際には『荒城の月』の4番目の音である「レ(D)」の音が消え、代わりに「花の宴」の最初の「は」の音である「ラ♭(A♭)」が加わっている状態だ。
もしもディマシュ側がこのメロディを実際に『荒城の月』から持ってきたのなら、それまでの『行かないで』のヴォカリーズと違和感が無いように、ジャンプを繰り返すメロディの運動に合わせて『荒城の月』の4番目の音を抜き、2行目のフレーズの最初の音を加えたのかな?と勘ぐったりする。
メロディ的には、これによってヴォカリーズの前半と後半のフレーズを繋ぐブリッジのメロディになるからだ。
もしも編曲の段階で偶然にこのメロディになったのなら、それはそれですごいことだが、プロの音楽家とプロの編曲者とプロの楽器演奏者達が、意図しないでこんなことは起こらないだろう、とも思う。
中国語版、日本語版両方のこのヴォカリーズ部分を聴きながら、いつも何か不思議な感じがしていたのは、これが原因だったのだろうと思う。
【集合的無意識の領域】
また、この『荒城の月』メロディの出現手前のコーラス2で、彼は非常に長く華やかな「ラン(こぶし回し)」を2回入れている。
また、ヴォカリーズのあとの最後のコーラスは、もうずーっと「ラン」だらけで、無音の前には盛大な「フォール」で締めくくっている。
この「ラン」はたぶん、カザフスタンや中央アジアなどの民謡やイスラム文化の音階などの「ラン」に由来があるのだろうと思うが、不思議なことに、彼の「カザフスタン人としての集合的無意識」と、聴いている私の「日本人としての集合的無意識」の間に、隔たりが起きてくる気配がない。
たまにこういう歌手はいる。
全ての言語と民族を飛び越えて、一直線に聞き手の魂に飛び込んで来るような歌声を持っている、稀有な人々。
ディマシュも、そのひとりなのかもしれない。
だから、「民族の意識」を越えて、それよりももっと奥深い場所に位置するといわれる「人類の集合的無意識」にまで、彼の歌は到達しているような気がする。
私がこの歌で感動するのは、私が日本語を母国語とすることや、ディマシュ側が用意してくれていた(と仮定する)『荒城の月』のメロディに無意識がどこかで反応していたかもしれない事情も、あるにはある。
だが、それよりなにより、日本語がわからない海外のリアクション動画の多くで、皆さんが彼のこの歌に感動して涙するのと同じような、「民族」を超えた個人の魂への非常に深い到達が、彼の歌にはあるからなのではないかと思う。
【タナトスとの親和性】
それから、この曲の作詞をした松井五郎氏についても言及しておこう。
松井氏の歌詞は、私の場合、この曲を作曲した玉置浩二よりも、氷室京介(元BOØWYのボーカル)のソロアルバムのほうでなじみが深く、松井氏の独特の死生観と世界観が、氷室京介の声や、彼の作るメロディととても相性が良かった。
例えば、氷室京介の歌の中から、松本隆氏(KinKi Kidsの『硝子の少年』や松田聖子の多くのヒット曲を手掛けた作詞家)が作詞した『魂を抱いてくれ』と、この『行かないで』を作詞した松井五郎氏の『堕天使』を聴き比べてみる。
・『魂を抱いてくれ』https://www.youtube.com/watch?v=ZTXc5DQL0YI
・『堕天使』https://www.youtube.com/watch?v=kKmBL6FpZR4
「松本隆の歌詞」(『魂を抱いてくれ』)は、魂の傷は愛で癒せる可能性や、人間の意志の力で困難を乗り越えていく印象があり、歌の背景にタナトス(死の神)の顔は見えるが、エロス(愛の神)の力のほうが強く、タナトスより手前に立って人間に愛をそそいでいる感じがある。
しいて言えば、この歌の主人公は、ディマシュの『行かないで』の主人公の、1番の歌詞の精神状態だ。
「松井五郎の歌詞」(『堕天使』)は、愛でさえ癒やせない傷がこの世には存在し、生きることそれじたいが痛みであり、歌の背景にエロスは佇んではいるが、タナトスの方が前面に立ち、ことあるごとにエロスの力を打ち消していく。そのため歌の主人公は癒やせない痛みにただ寄り添うしか手立てがない。そういった、ある種の「やるせなさ」や「諦観」の印象がある。
作詞者が同じだから当然ではあるが、こちらの歌の主人公は、ディマシュの『行かないで』の、破壊と再生を経験して宿命を受け入れたあとでハミングをしている主人公と同じような精神状態だ。
そして、ディマシュはあきらかに、松井五郎氏側の、タナトス側の表現者だと思う。
多くの死者の魂、愛しい人を死によって失った人々の魂、人間が生きる上で経験する悲しみや痛みや苦痛、それを声で慰める立場に、彼は生まれついているのではないか。
まあ、これも私の妄想ですがね。
ともかく、ディマシュが日本語と松井氏の詩、そして玉置浩二のメロディとの相性が良かったおかげで、私としては、前々回読んでいただいたような妄想の物語が頭の中で勝手に組み上がっていくという究極の至福を味わうことができたわけです。
【まとめ】(というか、まとまり切らないので「あきらめ」ともいう)
そんなわけで、ディマシュと『行かないで』(日本語バージョン)について、書きたいことは日々どんどんたくさん増えていくのだが、今回は、そろそろ閉めようかと思う。
いやもうね、「夢」ですよ、歌を聴きたい人間にとっての、ディマシュの存在ってのは。
断言してもいいと思う。
ディマシュは、彼の故郷カザフスタンにとってだけじゃなく、人類にとっての「宝」である、と。
(終了)
(第1稿:2022年7月3日~6日)
(改稿 :2023年6月24日)
【注解】
(注1)
ディマシュにそれ(承認欲求)があるとしたら、私が今までに見た中では1回だけで、『Singer2017』の第3期、『ショウ・マスト・ゴー・オン』を歌う直前の彼だけ。
ただしこれは「承認欲求」というよりも、「野心」といった方がいいかもしれないが。
(注2)原曲について
原曲は、1989年11月20日に日本でリリースされた、玉置浩二の同名の歌。
作詞/松井五郎、作曲/玉置浩二。
同年12月21日と12月22日の2日に渡って放送された、フジテレビ開局30周年記念番組『さよなら李香蘭』(主演=沢田靖子) の主題曲として制作発表された。
ドラマ『さよなら李香蘭』は、中国で生まれ、人生の前半期を「中国人女優の李香蘭」として生きた山口淑子を題材とした実話に基づいている。
彼女は満州国の「五族協和」「日満親善」の国策と、日本軍の思惑の両方に翻弄され、終戦後に反逆罪で処刑の一歩手前まで追い詰められ、歴史と戦争の狭間で二つの故郷を持ってしまったひとりの女性の苦悩が描かれた。
山口淑子さんの自伝『李香蘭 私の半生』(1987)のあとがきには、
「かつて李香蘭の名前を葬ろうと固く決意したものだが、それから四十余年、折にふれ時にふれ、彼女はまとわりついてきた。」
と書かれているそうだ。
(注3)『荒城の月』
(ディマシュ側がこの歌からメロディを得た証拠はまったくないが、とりあえず日本人のための教養として書いておく)
1898年、詩人の土井晩翠が、東京音楽学校(現・東京芸術大学)から中学校(旧制中学校)の唱歌用の歌詞を委嘱されて詩を書き、同校が曲を公募。
瀧廉太郎の曲が採用され、1901年(明治34年)に『荒城の月』として発表、『中学唱歌集』に収められた。
土井晩秋(1871~1952)は1898年当時27才。1897年に郁文館中学校に就職し、カーライルの『英雄論(英語版)』を翻訳出版。1899年に第一詩集『天地有情』を発表し、島崎藤村とともに「藤晩時代」と呼ばれた。1950年(昭和25年)に、詩人としては初めて文化勲章を受章。
瀧廉太郎(1879~1903)は1901年当時22才。1898年から東京音楽学校のピアノ科教師だった。
1901年ヨーロッパ留学生として当時のドイツ帝国ベルリンに赴くが、その5か月後に結核を発症、日本に帰国したが、1903年に24才の若さで死去している。
瀧の作品にはこの『荒城の月』の他に、『花』(♪春のうららの隅田川)、『雪やこんこん』『お正月』『箱根八里』などがある。