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『行かないで』2 カバー by ディマシュ:魂の物語 あとがき&妄想考察

実況的妄想感想の、あとがきのような、さらなる妄想のような……

                  (Dimash No.1)
                  (6,292文字)
                  (第1稿:2022年7月7日~8日)

動画:『Dimash - Ikanaide | 2021』  
     by Dimash Qudaibergen 公式  公開日:2022/02/06
   ※2021年11月29日 「20th TOKYO JAZZ FESTIVAL」初出



【あとがきの前書き】

 ディマシュのこの『行かないで』(日本語バージョン)を聴いている間、自分の頭の中に展開されるストーリーのプロットが面白かったので、実際に文章に起こしてみると、思いのほか壮大な魂の物語になってしまって、驚きました。
 実際に彼がこんなふうに歌っているかどうかは、わかりません。
 わかりませんが、作品が世に出てしまったら、もうこっちのもの。
 たとえ、ディマシュ様ご本人が「違~う!」つって顔真っ赤にして怒鳴り込んできたとしても、我々リスナーはどんなふうに歌を聴いたって、基本は自由なのです。
 でもまぁ、このストーリーはほぼ私の妄想と言っていいと思うので、この歌の聴き方の「ひとつの例」として読んでいただければ、と思います。
 

【サウンドに関して】

 本文中に、サウンドに関して何も言ってないので、ここでちょっと触れておきます。
 といっても、クレジットをなんにも持ってないので、素人の耳に聞こえたようにしか書けませんがね。
 まず、単に2本で鳴らしているのかもしれないけど、なんとなく12弦ギターのような感じがするアコースティック・ギターが、とても綺麗です。
 イントロで少しだけベースが鳴りますが、それがもう最高にカッコいいです。ディマシュの曲はどれも、ベースが非常によく聞こえるのですが、今回のこのベースラインも本当に素晴らしいです。ていうかもう、超・好み。
 このベースは、ヴァース1でいったん消え、ヴァース2になってドラムスと一緒に再び鳴り始めます。
 この2つの楽器が1で鳴ってないのがとても意味深で素敵。
 なぜかというと、ベースやドラムスは音楽の中でムーブのためのフィールドを作り出す役割があるのですが、1ではムーブのための時間が主人公の世界にまだ発生していないので、鳴ることができないのです(た、多分…)。
 かわりに抒情的なチェロが鳴っています。チェロはムーブではなく、主人公の情感をトレースしています。

 ヴァース1のコーラスまでの間、各パートが装飾音を奏でているだけのような音数の薄さが非常に美しいですね。
 各楽器のレイヤー上の音が、時間経過の中でキラキラと浮き上がったり沈んだりを繰り返していて、それがお互いのレイヤーどうしの繰り返しと重複しないように、ものすごく繊細に作られているような感じがします。
 また、各楽器が鳴らす音が、この原曲の元々の「バラードらしさ」や「歌謡曲らしさ」からすごく微妙な距離で「ジャズ」側にずれているような感じがして、それがこの曲の味わいを引き立てている感じです。それによって、この曲の単純なメロディの美しさがより際立つ、というか。
 それに、ほんの数カ所ですが、ディマシュのボーカルがスムーズに展開されるように、ごく自然なメロディの改変があって、それがとてもドラマチックです。
 ヴァース2の「知らなくていいのに」の2回目の繰り返しから、ストリングスがコーラス用のメロディを奏で始めるのですが、「バラード」感を焦らされた分、うっとりします。
 たまにディマシュが日本語の単語の途中でスタッカートを入れると(「こ、ころは」「い、かないで」など)、ヴァース2では「ポップス」に、最後のコーラスでは「ハードロック」のダイナミズムの方向にずれるような感覚があります。
 そういう風に、1曲の中に複数のジャンルのテイストが入っているのが、個人的にディマシュの世界の大好きなところかな。
 それでも、音数はすごく薄いです。
 
 

【侘び寂びと、枯山水】

 最後のコーラスで楽器も盛り上がりますが、それでも標準のバラードよりもずっと薄くて、なんかもう、「侘び寂び」の世界というか、ちょっとだけ西洋のキラキラが入った「侘び寂び」の世界かな、と。

 江戸時代初期に小堀遠州(注1)という人が「綺麗寂び」という世界観で庭をたくさん作っていて、デヴィッド・ボウイ(注2)も訪れたことがある「正伝寺庭園」の「獅子の子渡し」なんかが有名ですが、そういう外国の方の好みの「侘び寂び感」かもしれないです。

 この「侘び寂び」の概念は、宋の時代の中国の「道教」(注3)が持っていたもので、「道教」とともに日本に伝来してのち、日本独特の美意識として定着しました。
「侘び」は、元々は「思いわずらい、悲しみ嘆く」こと。
 それが時を経て「豊かな内面表現」へと進化。
「寂び」は元々は「淋しくて弱っている」こと。
 それが時を経て「内面の美が外に現れる事」へと進化。
 ディマシュのヴァース1でのボーカルのエモーションが、まさにこの元々の意味の「思いわずらい、悲しみ嘆き」、しかも「淋しくて弱っている」状態ですね。

 彼が歌っているスタジオの壁紙の、白い光を背景にした灰色の四角の、「抽象的」な連なり。
 そして、ディマシュが着ているタートルネックのセーターの、モスグリーンという「苔の色」。
 それはまさに、「枯山水」の世界。(注4)
 抽象度の高さからすると、「竜安寺」の「石庭」でしょうか。これも小堀遠州かも?って言われています。
 彼を包む音の世界は、静かな雨音の連続のように薄く、「秋時雨(あきしぐれ)」を聞いているかのようです。
 そこに佇む主人公の内面で繰り広げられる、エモーショナルな魂の変容のドラマ。
 彼はそういう世界観を、特に「日本的な」と思われる「侘び寂び」の情緒的世界観を、我々日本人がよく知っている「目に見える」絵画空間の世界から、「目に見えない」音楽の世界へと位相を転移させ、それによって人種を超える普遍性を持たせ、なおかつ個人的体験のように聴き手に感じさせているわけです。
 今私が書いたような薀蓄は、Wikipediaなどで勉強して、ちょっと暇があれば誰だって書けます。
 でも、それをアート・パフォーマンスとして表現出来るっていうのは、もう天と地の差。
 しかも「侘び寂び」に「枯山水」に『荒城の月』。
 前の項目のサウンドについて考えていた時、音数の少なさからふと「詫び寂び」という、一見安直に見える言葉を思いつき、そこからディマシュのセーターの色がなぜ「あの色」なのかに気がついた時、私は涙がこぼれそうになりました。
 今まで日本的なテイストを音楽に取り入れたアーティストの中で、日本語の発音も含めて、日本の文化に対してこれほど哲学的な深い敬意を払ってくれた人がいただろうか、と。
「枯山水」の状態は、日本的な絵画世界を保持したままですが、それはなぜなのか。
 そして、なぜ、あのセーターがあれほど印象的なのか。
 理由はもう明白ですね。
 あの深緑の「苔の色」をしたセーターは、日本のdearsへの、ディマシュからの「愛のサイン」だったのです。
 


 (追記1 2023/06/21)
 動画のサムネイルの写真には、宮島・厳島神社の海の中に立つ「大鳥居」らしき映像が重ねられています。
 いやなんか大鳥居っぽいなとはずっと思ってたんですが、ついさっき実際に宮島の大鳥居の画像と比べてみました。ホントにそうらしいです。
 明治維新後の「神仏分離」までは、神社とお寺は「神仏一体」として同じ場所にありました。
 この大鳥居の映像には、「日本の神聖な場所」という意味が込められているように感じます。

(追記2)『荒城の月』については、別の記事で解説します。


【単語ごとの意味の違い】

 また、ディマシュの歌唱の凄味は、歌詞の日本語の単語ひとつひとつが、メロディによって単語が音節で区切られれば音節ごとに、また、設置詞の「に」「は」「で」などの1音1音についてでさえ、すべてにおいて、声の音質、強弱、テクスチャー、響き、意味などの「音楽的要素」が違っていることです。
 たとえば、最初の「なにも」と、次の「なにも」。
 サウンドや意味が全然違いますね。
 最初の「行かないで」と次の「行かないで」も、全然違いますね。
 もっと細かく言えば、コーラス部分の「行かないで」などの設置詞の「で」。
 全部で18個ありますが、18個とも全部、サウンドも意味も違います。
 もうね、クレイジーとしか言いようがないです、ここまでやられると。
 でも、生命感がある世界っていうのは、こういうものなんです。
 一度たりとも、同じ繰り返しは無い。
 類似はあっても、ひとつひとつはすべて、新しい現象なのです。
 彼は、ただそれをやってるだけ。
 では、なぜディマシュにはそれが出来るのか。
 
 

【カザフスタンに生まれるということ】

 私はその理由のひとつに、「カザフスタン」の歴史が関わっていると思っています。
 18世紀のこと、遊牧帝国ジュンガルの襲来を機に、カザフスタンは1730年台ごろからロシア帝国の傘化に入り、「カザフ・ソビエト社会主義共和国」を経て、1991年のソビエト連邦の崩壊直前に独立し、「カザフスタン共和国」となります。
 およそ250年に渡る「他国支配」から抜け出したのち、これからは自分達の独自の文化を取り戻し、将来を担う子供達を大切に育て、美しい国を作るのだと、困難な道程の端緒にいたその当時のカザフスタンの人々が、いかに意気込みに満ちていたか、想像してみてください。
 その理念の真摯さやピュアさが、独立後のカザフスタンで音楽教育を受けたディマシュの歌声に結実しているのです。
 アートとは何か。文化とはどうあるべきか。人間はなぜそれを欲するのか。その理念の結晶が、ディマシュなのです。
 彼が持つ音楽世界への深い洞察力と強い共感力は、未来を作る責任を負った人々の覚悟の中で彼が育ったことによる共鳴作用ではないか、と。
 それによって、彼がアートの本質を理解し、表現することが出来る能力を開花させ得たのではないかと思います。

 カザフ独立の2年と半年後に、彼は生まれます。当時のカザフスタンの人々が持っていた未来への希望や期待や不安などの様々な強い感情が、彼の最初の呼吸の中に、どれほど満ちていたことでしょう。
 おそらく彼の魂は、あの日あの時のカザフスタンに生まれることを決めて、生まれて来たのでしょう。
 彼のことをカザフの国の宝だと、カザフスタンの人々が口々に言うのは、本当にその通りなのだと思います。
 
 

【動画のクオリティの高さの、謎】

 それにしてもですね。
 多くのディマシュの動画を見たあとだと、どうしてこの動画だけ、彼がどうしてこんなに「可憐な美少年」に見えるのか、超~~~!不思議。
 もともと可愛いらしい顔立ちをしてはいるけど、この動画はいつもの3割増し。いや、もっとかも?
 特に「泣いてた」の時のあの、「あ、人間やめたんですね?」みたいなぐらい異常に美しい笑顔は、何なんですか!!!??? 
 非常に謎に満ちたクオリティの高さです。
 いつもと違うのは髪型だけなんだけどな。
 あ、眉毛もいつもより太く濃く描いてるかな? 特に眉頭かな? 
 もしかして、日本から現地へ撮影に行ったスタッフの中に、有能なメイクアップ担当者がいたのかな?
 そんなわけで、この曲は、聴き終わったらすぐにまたリピートして、彼のあの声と、歌唱のストーリーと、あの「可憐な美少年」ぶりを堪能したくなってしまうのでした。
 
 
(終了)
 
             (第1稿:2022年7月7日20時~7月8日4時)                         
             (校正:2022年8月8日)
             (最終校正:2023年5月17日)
 
 

【注解】

(注1)小堀遠州(こぼりえんしゅう、1579~1647)

 江戸時代初期の大名茶人。徳川将軍家の茶道指南役。
 書画、和歌にも優れ、王朝文化の美意識を持った「綺麗さび」を作り上げた。
 小堀遠州によって作庭・復元された庭園には、文中の2庭園のほかにも「桂離宮」「大池寺・蓬莱庭園」などがある。
(各ページで写真だけでも見ておくと、のちのち役に立つと思います)

1.正伝寺庭園:「おにわさん」より ↓

2.竜安寺石庭(世界遺産):「庭園ガイド」より(庭の石の黄金比を解説したもの)↓

 同じく、竜安寺石庭(世界遺産):「THE GATE」より。(龍安寺の歴史や見どころなどの解説)↓

3.桂離宮:「庭園ガイド」より ↓

4.大池寺・蓬莱庭園:「庭園ガイド」より ↓



(注2)デヴィッド・ボウイ(David Bowie、1947~2016)

 イギリスのロック・ミュージシャン。グラムロックの先駆者。
 稀に見る美貌とともに、異端と革新性でロックの地平を拡大したレジェンドのひとり。初期には日本人デザイナーの山本寛斎にツアー衣装の制作を依頼するなど、大の日本びいきでもあった。
 代表作(アルバム)「ジギー・スターダスト(1972)、「ヒーローズ」(1977)、「レッツ・ダンス」(1983)、「ブラック・スター」(2016)
動画:『David Bowie - Ziggy Stardust (From The Motion Picture)』
    David Bowie(公式) 2009/02/27

 

(注3)道教(どうきょう、 Dàojiào )

 道教とは、中国三大宗教のひとつであり、多神教の宗教。
 一般的には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、様々な要素を取り込んだ宗教とされる。
 中国の後漢末期(紀元200年前後)に発生し、隋唐から宋代(960~1279)にかけて隆盛した。
 日本に道教が宗教として定着したわけではないが、神仙術や養生思想は早くから日本に流入しており、「道教」の要素である陰陽五行思想にもとづいて、大宝律令(710)により陰陽寮(陰陽・暦・天文・漏刻)と典薬寮(医薬)が設置された。
 映画やドラマなどでよく聞く「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の「九字護身法」も、元は道教系統の呪文であるという。
 

(注4)枯山水(かれさんすい、Zen Garden)

 水がない場所で、水を使わず、岩や砂などで山水を表現した、日本庭園の様式の一つ。
 奥深く秘められた本質的な美をあらわす幽玄思想と、「間」や「余白」などの空白美によって形成された、禅宗の寺に作られた庭園。
 飛鳥時代にはすでに水を使わないで水を表現する庭園が存在しているが、成り立ちについては諸説あり、成立時期もわかっていない。
 平安時代に書かれた最古の文献史料である『作庭記(さくていき)』では、水がない場所に石を立てて表現する形式を枯山水(こせんずい)と紹介しているという。
(注1)の項目で紹介した小堀遠州の庭の1、2、4は、この「枯山水」である。
 ディマシュのこの動画では、壁紙の灰色の四角を枯山水の「石」とし、その後ろから光が漏れているように見える白い色を「砂」とし、その中にただひとつの「生きもの」として「苔」の色のセーターを着たディマシュが配置され、枯山水という見立てが出来る。



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