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何歳になっても「大切な他人」

盗んでもいない自家用車で神社へと走り出したあの夜の帳。

中学2年生の長男と大喧嘩したその後、まぁそれなりに仲直りをした。お互い優しくなろうね、なんて握手もした。

仲直りはしたものの何が正解だったのか分からず、それなりにもやもやしていた。
そんなとき、偶然にも高校生や成人した子供のいる友人と会ったり、メールを交わす機会が何度かあった。
やっぱり頼るべきは先人である。

「あったあった、そんなこと。私もよく泣いたわぁ」
「もっとひどい暴言もあったよ、でも今は本当に平和」
そんな話を聞いて気持ちが救われた。

「みんな思春期は同じだよ、でもこれが嫌だったとか、それは言っちゃダメだって、自分の気持ちを相手(子ども)にちゃんと伝えれば大丈夫」
「ホルモンとホルモンのガチバトルだね」
そんな話を聞いて間違ってないんだってほだされて、ちょっと笑えて泣けた。

大好きなジェーンスーさんもラジオで言ってたな。
いつでも人生の少し先をいく先輩が、松明で先の道を照らしてくれる、と。

グーグルに
「思春期 男の子 親子」
とか検索したら、きっと色んな家庭の事例や専門家のブログなんかが出てきたんだと思う。
年頃の子どもとの関係の築き方を伝授してくれたり、励ましてくれたりしたかもしれない。

でも、この頃はそういう指南的な役割をネットに求めなくなった。
誰かの正論を見ても、「人は人」なのだと思ってしまうようになった。
出会ったこともない遠い人に私たち家族の何が分かるんだろう。

でも近くにいる大切な人の言葉は違う。
育てている子どもたちの個性はもちろん違うのだけど、私の、私たち親子の人生にちゃんと関わってくれている。

ネットから得られる知識。
本から得られる見識や広がる世界。
そしてリアルな関係から得られる共感と愛情。

すべては使い分けだと思う。それぞれまったく得られるものもつながるものも違う。
でも、わたしにとってより小さくて身近な世界が、この手の届く範囲の世界が満たしてくれるものがなんと多いことか。
自分のことを話せる人がいること。
それはいつもいつも会って話すような、そんな関係でなくてもいい。
たまにふと会って、急にメールがしたくなって、そんなふうにつながる関係。
そんな友人がいることを心からありがたいと思う。
だから、私も大切な人のピンチにはいつでも心を寄せられる人でありたい。

ちなみに、わたしをこの数日で励ましてくれた人には、もちろん独身だったり、子どもがいない人も含まれている。
どんな属性にあっても、「生きる、暮らす」ということにおいては、同じような仕事の立場だったり、興味関心が同じだったりする人とは共鳴するものなんだとも思う、共感はできなくても。

人とのつながりが人生の醍醐味だ、と件の息子にもそのうち伝えよう。
弁が立つ彼には「そんなの知ってるわ」って言われそうだけど。


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