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親業はブランドか
ワーママ、ママタレ、ママブロガー、ママドライバー、ママ作家、ママ議員、ママアスリート…ちまたにはママである何者か、をことさらに強調する肩書きのようなものが溢れている。
実は私はそれらが苦手だ。それゆえ、仕事でお子さんやそのご両親をお呼びする場合の呼称も「保護者の方」で基本的に統一している。その背景には、父母の役割をする方がそもそも父母ではない場合もあることを知ったため、そこへの配慮ということもあるが、現代の多様化した家族像をまるごと受け止める言葉として、「保護者」が最適解だと今のところ思っているからだ。
しかしただ苦手を垂れ流しているだけでは無礼かと思うので、いったい何故、私がそれらに違和感を感じるのかを考えてみた。
「それって肩書?」
私が親子に関わるイベントなどをやっている仕事柄もあるのかも知れない。イベントやセミナーなど、ちょっと親子向けのものを検索するだけで、大量のママなんとかがヒットする。みんなよく、どんどん新しい言葉を作り出すなぁ。もう、社名にママをつけてしまっているところ、「ママ」の前後に何か単語をくっつけて、それを新しい職業として販売しているところetc...
ちょっと調べるだけで、ママはどの業界からも引く手あまただ。その割には、少子化が叫ばれ、Twitterを開けば育児の大変さと育児における夫の戦力外っぷりが切れ間なくあふれ出てくる。
なんで?なんでそんなにママは大変なの?それって「パパ+職業」の少ないことことと、関係あるんじゃないのかな?
ワーキングパパ、パパドライバー、パパ作家、パパ議員、パパアスリートなんて、聞いたこともない。パパブロガー、パパタレはあるかも知れないけれど、それは「パパであること」がその職業上プラスのイメージに働くからだ。そうでない多くの場合、育児中であることは仕事にマイナスだと無意識にみんなが思っているからではないのだろうか。
そうしてパパたちが育児を女性に丸投げ(せざるを得ない社会だったのだろうけれど)してきた結果、いま、ママたちが窒息しそうなほどすべてしょいこんで、あえて「ママである」ことを前に出すことで、「ママではない」人たち(パパ含む)と少しでも差をつけて勝負をしていこうとしてきた結果なのではないだろうか。もしくは、ママに丸投げしたい人たちが作り出したイリュージョン。
でもね、そりゃ親になった以上死ぬまで親であり子だけれど、いわゆる育児の時間て人生のうちのほんの一瞬。そして、育児中とは言っても、乳児・幼児・小学生・中高生、とステージごとに、またはそのお子さんの個性ごとに、その人の親として置かれる状況も全く違う。「ママ」という一言では表せない。
だから私は、パパであることもママであることも肩書にはならないと思うんだ。もちろん、親になってみて経験してみて初めて気づいたこと共感できたこともたくさんあるけれど、この「ママ+職業」という肩書が何かのブランドのように鎮座していく限り、日本の少子化解消も多様性の理解も、進まないのではないかなあ。
人の親であることは、肩書にはならないと思う。
その人の人生のほんの一部を切り取った状況説明ではあるけれど。
コミュニケーションをとっていく中で、お互いの環境を伝えあって、発見しあって、理解が深まるといいよね。