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【エッセイ】体育のトラウマが原因で運動そのものを苦手になりスポーツ全般を憎むようになった話
私は逆上がりが出来ない。腕力には自信があるのだが、重い尻がどうしても地球の重力に逆らえないのである。しかし逆上がりが出来ようが出来まいが人生に大した影響はあったか? 答えは否である。そしてこの先も特別困ることはないという気がしている。――そんな風に鼻くそをほじりながら開き直れるようになったのは大人になってからの話であり、子供の頃、特に体育の授業で評価をされる立場であった学生時代は、地獄の苦しみを与えられていた。
私が苦手としていたのは逆上がりだけではない。二重跳び、25m水泳、マット運動、跳び箱、球技全般、ハードル、高跳び、創作ダンス。体を動かすありとあらゆる項目に対して、私は苦手意識を持っていた。それらの苦手な行為を、大勢の前で晒すことを強要され、さらには評価される。中には出来ないことを叱責される場合もあり、それは集団で行う項目ほど顕著だった。それが体育の授業である。体を育てるどころか心を殺す行為に等しかったが、配慮を求めるべき病名を持っていなかった私は、大人しく授業に参加するしかなかったのだ。
何故私は体を動かす行為に苦手意識を持っていたのか。単純に「出来ない」からである。
幼稚園に上がる前から、今でも、手本を真似る行為が苦手だ。手本と同じポーズをとる、が致命的に出来ないのである。車両感覚が掴めないことと同様に脳に何らかの欠陥があるのだろうと今となっては諦めの境地だが、ほとんどの技能の習得の始まりは手本の真似であり、その時点でハードモードが約束されていた。手本の真似が出来ない姿ほど無様なものはない、と私は思っていた。時に大人社会よりも残酷でシビアな子供社会において、デブが無様な姿を晒せばそれは嘲笑の対象となる。自意識過剰だろうか? それなら私を見て笑った奴らは、一体何に対して笑っていたのだろう。
嘲笑されることは不本意でも、自分の評価が下がるだけなら、まだ良かった。そもそも失うものはないので、全体の平均を保ちたければ別の教科で好成績を収めれば良い。しかし体育のカリキュラムには、集団で行わなければならない競技が多分に含まれていた。球技や長縄飛び、創作ダンスである。
競技に燃えてしまう人種はどの共同体にもいるらしく、それが彼ら彼女らの生き甲斐であるならば、勝手に燃えて灰になれと思うのだが、その火の子を頭から浴びせられるこちらはたまったものではない。ところが、他人に強要し、自分の思い通りにならない相手を強い言葉で責め立てる愚行が、「青春」を盛り立てると勘違いしている層は確実にいた。
「ミスしてへらへらしてんじゃねーよ!」「お前はもうだめだ校庭1周走ってこい!」「なんで簡単な振り付けも出来ないわけ!?」といった怒声が今でも耳に残っている。一つ目はボールを取り損ねた時にチームの男子から、二つ目は長縄飛びで二回連続で引っ掛かった時に女性教師から、三つ目は体育祭の練習中にダンスの振り付けを間違えた時に高3の先輩から。いずれも大勢の前で怒鳴られたので、トラウマ化は待ったなしである。もちろん私とて勝利は嬉しい。チームやクラスの優勝に貢献出来るものなら初めからしている。出来るものなら。学校外で習っている競技ゆえか、そこでしか活躍できない男子はどうしても勝ちたかったのだろう。知らんがな。優勝を目指して一致団結するクラスに、教師は夢を見ていたのだろう。知らんがな。高3の先輩は最後の体育祭を華々しい記憶で終わらせたかったのだろう。知らんがな。私に言わせればすべて知らんがな、だ。出来ない他人を責める前に出来る自分だけで勝てる方法でもお考えになったら? という話である。残ったのは遺恨だけだ。私は後に人伝に聞いたその男子の挫折を心から喜び、卒業時に涙を見せた教師を鼻で笑い、本番後に皆のお陰で楽しい思い出が云々と語り出した先輩を心底気持ち悪いと蔑んだ。
日本の体育教育の是非について論じるつもりも資格もないが、思うことはたくさんある。少なくとも私にとって、体育の授業は公開処刑の場に過ぎなかった。あの時間は、嫌な思い出を植え付けるためだけに存在していた。
嫌な思い出は、運動をする気力を根こそぎ奪った。健康上の理由でフィットネスに通った時期もあったが、インストラクターが苦手で続かなかった。意地悪をされたわけではない。相手も仕事なので、面と向かって嘲笑されたわけでもない。インストラクターの仕事を選ぶような人間を、そのノリを、忌避してしまったのだ。体を動かすことを楽しみにしている周囲にも馴染めなかった。
何年か前に、お国が「スポーツ嫌いな子を減らす」旨の無茶苦茶な方針を打ち出して物議を醸していた。ジェノサイドもしくは脳に特殊な電波でも流すのだろうか? と当時の私は思った。生活習慣病を防ぐ意味でも体を動かすことは大事だと思うし、国としても将来ジョギングやウォーキングに親しむ子供を増やしたいのだろう……と好意的に見ることも不可能ではないが、嫌いを好きに変えるのはどのジャンルであっても困難であり、現状の体育教育でそれが叶うとは思えない。やはり特殊な電波でも用意していたのだろうか。
一体誰が考えたの? と目や耳を疑いたくなる政策はこの分野に限らず存在するが、あればかりは、スポーツ出来る人が上から目線で考えたんだろうなあ……と冷めた目で見てしまった。スポーツ庁の長官がオリンピアンだからというのは早合点だが、スポーツの振興などを目的として設立された組織の関係者が、私のようなトラウマ持ちの運動音痴であるとは思えない。運動音痴の気持ちを理解できるわけがないのだ。そこで疑問に思ったのは、彼らは何故「得意」と「苦手」ではなく、「好き」と「嫌い」だったのかという点だ。「得意」と「苦手」でも嫌悪感はあったと思うが、個人の自由が最も尊重されるべき好みに及べば、少なからず反発する人はいる。そこに疑問を抱けなかったのは何故か。
そこには、日本にある気風と同調圧力が大きく影響していると思う。
飲食物の話では、人類の生存戦略において全員が「好き」だと滅んでしまうために、一定数「嫌い」な人々がいるという考え方がある。たとえば牛乳。牛乳を「好き」な人が牛乳を「嫌い」な人よりも優れているとは言われにくく、「嫌い」な人にもそれなりの人権と配慮が与えられている。しかし何故か、スポーツに関しては「好き」の方が優れており、圧倒的マジョリティでなければならないという同調圧力がある。それはオリンピックやワールドカップの時期が、一番わかりやすい。
先に断っておくと、私はオリンピックやワールドカップにほとんど興味がない。日本の選手がメダルを取った、勝ったと聞けば嬉しいし、自分のことのように喜んでいる人たちに「良かったね〜」と思う気持ちは人並みにあるが、日本が勝とうが負けようが、私の人生は良い方にも悪い方にも動かないのだ。どこかの国のように祝日が増えたり、現金がばら撒かれるというのなら少しは違ったかもしれないが、日本ではまず起こらない。だから、スポーツの力でみんなを笑顔に、といった文言はあまり好きではない。大会のPR一色になるメディアや世間にも嫌気がさす。特番のドキュメンタリーで選手の苦しい練習風景を見せられても心は動かないし、コーチのスパルタ指導を見せられれば嫌悪感で気持ち悪くなる。熱い気持ちがあったところで語気が強ければただの暴言にしか聞こえない。昔の嫌なことを思い出す。憎らしい気持ちが止まらない。スポーツの力で笑顔になれる人だけが笑顔になれば良いし、勇気を貰える人だけが勇気を貰えば良い。それは大変結構なことだが、全員がプラスの気持ちになると思うなよ? とどうしても反発してしまうのである。私は笑顔になれないのだ。
変わってる自分アピールうぜえ、と思われるかもしれない。以前、SNSの全アカウントに送られたサッカー観戦強要が話題になった時、拒否感を示した人に、そういうリプが送られているのを見た。そういうとこだよ、と私は拒否感を示した側として思った。軽率なクソリプを送る人間性はさておき、何故、拒否する側を変わっていると判断したのか。それは彼らが圧倒的マジョリティの立場を自認しているからだと思う。同調圧力の根源だ。
スポーツが好きで楽しんでいる大多数を否定するつもりは毛頭ない。ただ、勝手にして、の一言に尽きるのだ。嫌いで楽しめない私なんて、そっとしておいてほしい。もしくは今すぐに植え付けられた体育のトラウマを消してほしい。話はそれからだ。