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阪神タイガース 詳細年表⑩

今回は1976年(昭和51年)から1980年(昭和55年)を掲載したく思います。
この時期は、江夏、田淵ら長年球団を支えていたスター選手が球団から去り、チームも世代交代が進む時期であったと思います。
その中でチームの成績としての結果はいまひとつとなり、Bクラスに甘んじることが多くなりました。
また球史に残るであろう大事件の、江川選手の巨人入団を巡る騒動にも関わることとなりました。
この時期以前からのファンの方にしてみると、少し厳しい状況であったかもしれません。
 

1976年(昭和51年) 

1月19日

江夏が球団事務所に呼ばれ、長田社長から南海へのトレードを通告された。 

1月23日

江夏放出のトレードが成立する

江夏、望月充と南海の江本孟紀、長谷川勉、池内豊、島野育夫の江夏、江本を軸とした2対4のトレードであった。
江夏残留を主張していた吉田も前年12勝12敗と不調に終わったことで、球団指令に従うしかなかった。
当初、トレード拒否、現役引退も考えた江夏だが、南海監督・野村克也に口説かれ、トレードを承諾した。 

1月26日

江夏が会見。
涙を流し、阪神への感謝を述べた。
阪神在籍9年で完封44を含む159勝113敗14セーブの成績を挙げ、阪神を去った。
南海移籍後の江夏は、野村の下で、当時なじみのなかったクローザーとして再生した。 

1月27日

実行委員会は最優秀新人(新人王)の選考基準を支配下登録5年以内等緩和した。 

3月1日

後楽園球場の改装工事が竣工、日本初の人工芝球場がお目見え。 

3月6日

第四十七回対阪急定期戦(甲子園)、阪急2勝1敗。 

3月14日

第二十五回対南海定期戦(甲子園)、阪神1勝1分け。 

3月20日

中日球場が改装され新会社となり、ナゴヤ球場としてオープン。 

3月25日

セ・リーグ、トーナメント大会開催(後楽園)、中日優勝。 

4月1日

フジテレビ系列で「プロ野球ニュース」の放送が始まった。 

4月18日

大洋戦(金沢)でチーム新記録の24安打、藤田平が4打数4安打、2四球を含めて六度出塁、5連続得点というセ・リーグタイ記録で19対4で勝利。 

4月25日

大洋戦(甲子園)を遠井のサヨナラ3ランで勝利、球団四度目の11連勝。 

4月29日

ヤクルト戦で中村勝がゲーム最多得点5のセ・リーグタイ記録。 

6月22日

ヤクルト戦(神宮)でハル・ブリーデンが2本塁打し、この月「1試合2本塁打」を五度記録、野村克也の記録を破り新記録。 

6月23日

ヤクルト戦(神宮)で藤田平が初回先頭打者本塁打、八回右本塁打を放ち通算150本塁打達成。 

7月23日

中日戦(ナゴヤ)で池辺が左翼ポールに当たる本塁打を放ったが、これがプロ野球通算35000本目の本塁打だった。 

7月28日

鈴木一男常務、病により死去、55歳。 

8月7日

中日戦(岡山)、4対7で敗れ、球団初の9連敗となった。 

8月25日

広島戦(甲子園)で田淵が六、七、八の3イニングに3打席連続本塁打。 

9月1日

岡崎義人、常務取締役就任。 

9月5日

広島戦(広島)、広島・シェインの打球を本塁打から二塁打に判定を変更したため揉め、試合が1時間2分間中断。 

9月14日

巨人戦(後楽園)で一回、田淵が加藤初から通算250本目の本塁打を放った。 

9月19日

広島戦(甲子園)を1試合9本塁打、両チーム合計11本塁打のセ・リーグタイ記録で13対4で勝利。
1イニング両チーム最多本塁打(阪神4、広島1)のセ・リーグ新記録、双方毎回安打も記録。
中村勝、掛布、ラインバック、田淵がタイガース史上唯一の4連続本塁打を放つ。 

10月5日

広島戦(広島)、一回田淵が本塁打セ・リーグタイ記録となる38号ソロ、八回掛布の23号ソロでセ・リーグ新記録。 

10月13日

巨人戦(甲子園)で田淵が新浦から左側頭部に死球を受け、救急車で明和病院に運ばれたが、レントゲン検査の結果骨には異常がなく残り試合に出場した。 

10月19日

ヤクルト戦(甲子園)で中村勝がチーム193本目の本塁打、プロ野球タイ記録、セ・リーグ新記録を伸ばした。 

吉田体制2年目のこの年、シーズン序盤に11連勝するなど首位争いを演じ、72勝45敗13分け、27の勝ち越しで、勝率は.615に達し、優勝した1985年(昭和60年)の貯金25、勝率.602を上回っていたが優勝した巨人に及ばず2ゲーム差の2位だった。
チーム本塁打193本は松竹の179本(昭和25年)を大きく更新するセ・リーグ新記録。
南海から移籍した江本は4年連続2ケタ勝利をあげ、ブリーデンが入団早々40本塁打を放った。
掛布がサードのレギュラーとなり.325を記録。
この年からセ・リーグはセーブ数と救援勝利数を合算して「セーブポイント」とし、その最高点者を「最優秀救援投手」として表彰。

オフ、吉田と田淵の起用法で対立した懐刀の辻佳紀ヘッドコーチが退団。

1977年(昭和52年) 

2月2日

初代監督・森茂雄、、故西村幸生野球殿堂入り。 

3月3日

実行委員会が高校卒の社会人選手は3シーズン契約しない等を決定。 

3月5日

第四十八回対阪急定期戦(甲子園)、阪急3勝。 

3月13日

第二十六回対南海定期戦(大阪)、南海3勝。 

4月2日

開幕戦のヤクルト戦(神宮)で掛布が松木、門前に次いで球団3人目の開幕試合満塁本塁打。 

4月24日

ヤクルト戦で遠井が代打本塁打、これがチーム3000号本塁打であった。 

4月29日

川崎球場での大洋戦、打球を追った佐野仙好がコンクリートフェンスに激突、頭蓋骨陥没骨折で昏倒。 
左翼フェンス際の飛球を好捕したが、起き上がれない間に一塁走者が一気にホームインし、吉田はこれほどの大事故で審判がタイムをかけないことに抗議したが受け入れられず、提訴を条件に試合再開。
佐野はグラウンド内に入った救急車で川崎駅前の太田総合病院に運ばれた。 

4月30日

事態を重く見たコミッショナー・金子鋭は各球場にラバーフェンス設置を要請、野球規則委員会に危険防止のための規則を検討するよう指示。 

5月12日

セ・リーグ考査委員会は「審判は正しくルールを適用していた」と阪神の提訴を却下。
実行委員会は選手の安全を守るため本拠地球場フェンスにラバーを張ることを決定、各球団了承。 

5月22日

ヤクルト戦で阪神内野手0捕殺、両チーム合計内野手最少捕殺3のプロ野球新記録。 

5月24日

大洋戦で池辺巌、1500試合出場達成。 

5月31日

佐野は頭蓋骨骨折で人事不省に陥ったが、約一週間で危機を脱出し退院。 

6月16日

ヤクルト戦で、阪神4、ヤクルト3、合計7の併殺打のセ・リーグタイ記録。 

6月24日

初代監督・森茂雄死去、71歳。 

7月3日

ヤクルト戦(甲子園)で、復帰した佐野が第一打席で安田猛から本塁打。 

7月7日

広島戦(甲子園)でブリーデン、田淵、東田が本塁打を放ち、16試合連続本塁打となりセ・リーグ新記録。 

7月16日

ヤクルト戦(神宮)で掛布、片岡が本塁打を放ち、連続試合本塁打の記録は2    3試合まで到達、翌日に途絶えた。 

7月26日 

公認野球規則に人命にかかわる事態と審判が判断した場合プレー進行中でもタイムを宣告できる旨の項目が加えられ、7月29日発効となった。 

8月6日

中日戦、両チーム1イニング3本塁打(阪神8回ブリーデン、片岡、榊原、中日3回井上、大島、谷沢)。 

8月26日

中日戦、池辺巌が150本塁打達成。 

8月31日

ヤクルト戦、田淵が通算1000試合出場達成。  

9月22日

ヤクルト戦、桑野議が代打本塁打、シーズン代打本塁打9本のチーム新記録。

10月1日

広島戦で敗れ、前年に次ぐ球団二度目の9連敗を喫した。 

10月9日

広島戦で安仁屋が600試合登板達成。 

10月13日

大洋戦、ブリーデンが球団初の自身3本目の満塁本塁打を放ち、シーズン満塁本塁打8本の球団新記録。 

シーズンは55勝63敗12分け、勝率.466でBクラスの4位に沈んだ。
優勝は巨人。 
山本が58試合に登板、年間最多登板を記録、最多セーブ投手。

10月17日

吉田の退団を発表。
留任発表をしていたが、吉田はこの年の成績を理由に退団を申し入れ受理された。
年棒の査定問題で選手から「監督にダマされた」という不満の声が出ても球団は知らんぷりであった。
対立する反吉田派のマスコミからは「吉田はタバコの一本一本に名前を書いている」「水虫の治療費も経費で球団に請求している」とドケチのキャンペーンを張られていた。
会見では「阪神タイガースは永遠に不滅です」と巨人・長嶋茂雄引退時の名文句を使い、別れの言葉を述べた。 

10月21日

オーナー会議で「正力松太郎賞」の新設を了承。 

10月31日

後藤次男が長田と面談、監督就任を受諾。

11月2日

後藤次男の昭和44年以来2度目の監督就任を発表。 

11月9日

大洋が、来シーズンからチームの呼称を「横浜大洋ホエールズ」にすると言明。 

11月22日

ドラフト会議、この会議最大の関心事である法政大・江川卓の交渉権は太平洋クラブからネーミングライツを引き受けたクラウンライターが獲得した。 

12月3日

江川が記者会見でクラウンライター入団拒否の姿勢を示した。 

この年限りでコーチ兼任だった遠井吾郎が引退、酒を愛し温厚な人柄で「仏のゴロー」と親しまれた。
阪神一筋20年の現役生活は藤村富美男、吉田義男を上回る球団最長であった。(後に桧山進次郎が22年と更新)
この年、掛布の応援歌「GO!GO!掛布」が発売され、人気が急上昇した。

1978年(昭和53年) 

1月24日

初代主将・松木謙治郎、野球殿堂入り。 

3月

甲子園球場3塁側アルプススタンド下、室内プール跡に室内練習場を新設。    球団がこの月から「月刊 Tigers」を発行。 

3月5日

第四十九回対阪急定期戦(甲子園)、1勝1敗1分け。 

3月12日

第二十七回対南海定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

3月28日

前オーナー・野田誠三死去、83歳。 

3月31日

横浜スタジアム完成。 

4月25日

広島戦で藤田平が通算1500安打達成。 

5月27日

巨人戦で敗れ球団タイ記録の9連敗となった(3度目)。 

5月29日

ブリーデンを膝の怪我もあり解雇。 

6月5日

ヤクルト戦(神宮)で田淵が三回、五回に本塁打を放ち、通算300号本塁打を達成。
入団10年目、1072試合で達成、それまでのスピード記録を更新した。 

6月15日

巨人戦で安仁屋が200試合連続リリーフ。 

6月18日

中日戦で藤田平が181打席無三振のプロ野球新記録を樹立。 

6月21日

阪神電鉄役員人事で野田忠二郎が社長を退任し会長に、田中隆造が副社長から社長に、小津正次郎が新たに専務に就任。
田中は小津に後任監督探しを命じた。 

7月5日

中日戦(甲子園)で藤田平が佐藤政夫に三振を喫し、無三振記録が208打席でストップした。 

7月17日

大洋戦で長谷川勉がゲーム最多犠打3のセ・リーグタイ記録。 

7月24日

昭和生まれのプロ野球選手で、200勝以上の投手、2000本安打以上のものを資格者とする「日本プロ野球名球会」が発足。  

7月25日

掛布がオールスター第3戦(後楽園)で3打席連続本塁打。
これは球宴記録としては唯一のものとして残っている。
このシリーズで掛布は、第一戦優秀選手賞、第二戦敢闘賞、第三戦殊勲選手賞、打撃賞、ホームラン賞を一手に握った。 

8月17日

広島戦で田淵が九回、松原明夫から中前安打を放ち通算1000本安打達成。 

9月1日

ヤクルト戦で掛布が2回に本塁打を放ち4打数(1四球を含む)連続本塁打を記録、球団では昭和48年の田淵に次いで2人目。 

9月3日

ヤクルト戦、榊原がゲーム5得点のセ・リーグタイ記録。 

9月9日

ヤクルト戦で藤田平が1500試合出場達成。 

9月14日

大洋戦で敗れ、球団史上初の最下位が決定。 

9月19日

広島戦で阪神・広島戦合計本塁打89となり、両チーム合計最多本塁打のセ・リーグ新記録。 

9月24日

大洋戦(甲子園)で敗れ、甲子園での大洋戦、0勝11敗2分けで終わった。

シーズンは、球団創設以来最悪の41勝80敗9分け勝率.339で、全球団に負け越し、優勝のヤクルトには30.5ゲーム差、球団史上初の最下位となった。

10月9日

長田球団社長、後藤監督が、最下位の責任をとり辞表を提出。

10月11日

野田忠二郎がオーナー退任、電鉄本社社長・田中隆造がオーナー就任。
本社専務の小津正次郎が球団社長に兼任のまま就任。
数々の改革を打ち出す小津は「小津の魔法使い」の異名をとっていた。       長田は昭和54年まで取締役として名を連ね、その後顧問となった。       球団常務・岡崎義人が球団代表に就任。 
後藤監督の辞任発表。
後任監督にはヤクルト監督の広岡達朗招聘の案もあり打診、好感触を得ており、田淵放出についてまで話していたが優勝監督引き抜きは無理と判断、この話はなくなった。

10月12日

緊急実行委員会、オーナー会議は福岡野球株式会社の経営権を西武鉄道グループへの譲渡、保護地域を福岡県から埼玉県に移すことを承認、西武ライオンズが誕生。

10月13日

初の米教育リーグ(フロリダ州)に広島との混成チームで参加。

11月4日

球団初の外国人監督としてドン・ブラッシンゲーム(ドン・ブレイザー)の就任を発表。
「シンキング・ベースボール」をキャッチフレーズに掲げた。

11月15日

午前1時田淵が球団から呼び出され、午前2時前に大阪・梅田のホテル阪  神に到着、小津の待つ部屋で西武へのトレードが通告された。
田淵は深夜の呼び出しに不快感を示し、引退も考えた。 

11月17日

田淵、改めて小津と会い、説明を受け、新監督ブレイザーの構想外であることを理解、小津が西武の根本睦夫監督と会食の場を授け、トレードを受け容れた。 

11月20日

作新学院職員として渡米していた江川が帰国。 

11月21日

巨人が江川卓と選手契約を完了したと発表。
巨人は交渉権の切れる1日を逆手にとり、江川と契約、正当化しようとした。
いわゆる「空白の1日」である。
これに他11球団は反発、セ・リーグ会長・鈴木龍二はこの契約を「無効」と裁定、巨人・長谷川代表に対し、巨人と江川の選手契約申請は却下、と言い渡した。 

11月22日

ドラフト会議が鈴木裁定に不服な巨人欠席で開催。
阪神、南海、ロッテ、近鉄の4球団が江川を1位指名、抽選で阪神が交渉権を獲得。
巨人は会議の無効を主張、リーグ脱退や新リーグ創設構想を公言するなど球界は大混乱、年内に翌年の開催日程も組めない緊急事態に陥った。 

11月28日

廃止された路面電車・阪神国道線の車庫跡地に、球団専用練習場を建設することに踏み切り工事着工。 

12月9日

西部、阪神両球団から田淵、古沢憲司と西武の竹之内雅史、若菜嘉晴、真弓明信、武田和史の2対4の大型トレードが成立、発表された。       田淵は阪神在籍10年間で320本塁打の記録を残し阪神を去った。 

12月21日

金子鋭コミッショナーは巨人・長谷川実雄代表を東京グランドホテルに招き「ドラフト会議は有効、江川と巨人の契約は認めない」と裁定を下した。 

12月22日

緊急理事会で金子は、江川は一度阪神に入団契約を交わし、その後すぐ巨人にトレードさせる形での解決を「強い要望」として提示して周囲を呆然とさせた。
金子は「裁定では解決にならない」と特例を持ち出したのだった。 

12月27日

巨人は「江川との契約を白紙に戻す」と表明、トレードを実現させる動きを見せた。
阪神は小津社長が「ルールを守る」「筋を通す」と言い続け、未解決のまま年を越した。

この年、それまで試合のテレビ中継時、審判後ろからのカメラしか許されなかったのが、バックスクリーンから捕手の正面をとらえる映像が解禁となった。

1979年(昭和54年) 

1月

安芸のサブグラウンドに千三百万円を掛け、本格的な改造を行った。
安芸をキャンプ地に選び、満15年を経過し、まとまりのあるものが完成した。 

1月7日

阪神、江川と初接触するが「移籍を前提とした選手契約はしない」という姿勢をこの日以降も通す。 

1月11日~12日

江川と初の入団交渉。 

1月中旬

小津の自宅に日本テレビ・小林与三次社長から連絡が入り、巨人・小林繁と江川のトレードを持ち掛けられたという。
これが事実だとすると、これまで阪神が江川のトレード相手に小林を指名されたとされていたが、巨人側から小林を指名してきたことになる。

1月31日

阪神、江川と東京で契約、鈴木セ・リーグ会長はこれを承認、公示。      江川と小林のトレード、両チーム間で合意。
承認申請は保留。
12時15分頃、キャンプ地・宮崎に向かおうと羽田空港にいた小林を巨人関係者がホテルニューオータニに連れ戻し、巨人・長谷川代表が阪神へのトレードを通告、小林は一瞬動揺した。
16時10分、巨人移籍前提であるが阪神が江川の入団会見を行った。

2月1日

午前0時過ぎ、小林がトレードを了承。
午前0時15分から読売新聞社本社8階会議室で阪神・小津と巨人・長谷川が同席し江川と小林のトレード発表。
小林は、沢村賞も獲得した巨人のエースで「悲劇のヒーロー」として爆発的に人気が高まった。
夕方、江川の阪神への入団発表、背番号は3であった。 

2月7日

衆議院予算委員会で社会党・川俣健次郎議員が、江川問題で大平首相・内藤文相に答弁を求めた。 

2月8日

実行委員会で、金子の「強い要望」は野球協約違反との見解が出された。      但し、江川の巨人との正式契約は4月7日の開幕日以降行う、それまでは阪神所属、巨人は江川移籍後自主的に4、5月の現役登録は行わないことを了承し決着。
金子は辞意を表明、阪神と巨人にはセ・リーグ会長から厳重注意の処分が下った。 

2月9日

小林が甲子園で調整を行った。 

2月10日

鈴木セ・リーグ会長が江川問題に関し、巨人・長谷川代表に戒告と制裁金10万円を科した。
小林の阪神選手としての公示が行われ、ホテル阪神で入団会見。 

2月11日

小林、安芸キャンプに合流。
報道陣200人、1万2000人のファンが訪れ、交通渋滞が起こるなどパニックとなった。
小林は阪神ナインを前にした第一声で「阪神には歴史はあるが伝統はない。巨人にはその伝統があるんだ」と発した。 

2月26日

野田忠二郎会長辞任、田中隆造会長就任。
プロ野球選手会総会で、社団法人日本プロ野球選手会設立申請書を文部省に提出する、退団金共済制度の発足等が決定。 

2月28日

実行委員会、オーナー会議が金子コミッショナーの退陣を承認。 

3月3日

第五十回対阪急定期戦(甲子園)、阪神2勝1敗。 

3月中旬

前年から建設していたタイガース専用練習場が完成、浜田球場がこれである。 

3月18日

第二十八回対南海定期戦(大阪)、南海2勝1敗。 

3月20日

浜田球場完成、竣工式を行う。
以後、ファームの選手を中心に練習・試合を行う。 

4月7日

開幕のこの日、江川が巨人支配下選手として登録された。 

4月10日

開幕2戦目の巨人1回戦で小林が移籍初登板、8回途中3失点で勝利投手となった。

4月15日

中日戦で中村勝が1イニング最多安打2のセ・リーグタイ記録、若菜が1イニング2二塁打の両リーグタイ記録。

4月17日

ヤクルト戦(神宮)で藤田平が捕球の際、右足を痛め「右大腿曲筋起始部断絶」により全治3か月と診断された。

4月21日

大洋戦(甲子園)で掛布が遠藤から左翼本塁打を放ち、100本塁打達成。       甲子園での大洋戦、昭和52年から15連敗。 

5月3日

巨人戦(後楽園)、巨人・堀内に対した小林は右打ちであるが左打席に立った。
バカにされた堀内は「右で打て」と言った。 

5月20日

中日戦(ナゴヤ)で真弓が、球団としては29年ぶり、通算4回目となるサイクル安打を記録。 

5月29日

大洋戦(仙台)で若菜が1試合5打席連続三振の日本記録。
これを含みチーム12三振を喫したが試合は勝利。 

6月2日

後楽園での巨人戦、巨人は前日登録されプロ入り初登板の江川が先発、阪神がラインバックの3ランなど3本塁打で江川を攻略し勝利。 

7月8日

巨人戦(後楽園)で小林に対した「一本足打法」の巨人・王が二本足で2安打を放った。
試合は9対8で阪神が勝利。
藤田平が治療のため渡米。 

7月28日

巨人戦(甲子園)で勝利し、セ・リーグ加盟以来2000勝達成。 

8月29日

広島戦(甲子園)、0対9で敗れ連続4試合無得点負けとなった。 

9月2日

中日戦(ナゴヤ)で竹之内雅史が通算200本塁打達成。 

9月5日

巨人戦(甲子園)で13対5で勝利、小林が勝利投手となり梶岡忠義に次いで2人目、1シーズンでは初の巨人戦8連勝を記録。 

9月8日

広島戦(広島)で負傷していた藤田平が代打で復帰。 

9月18日

広島戦(広島)で江本が完投で100勝達成。 

9月22日

ヤクルト戦(神宮)、この年入団のリロイ・スタントンが34試合連続三振のセ・リーグ記録。 

10月6日

広島戦(広島)で竹之内が池谷から左翼線二塁打を放ち通算1000本安打達成。 

10月10日

中日戦(ナゴヤ)で掛布が、藤村富を抜く球団新記録の47号本塁打を放つ。 

10月14日

ヤクルト戦(神宮)、スタントンが昭和44年のカークランドを上回るシーズン最多三振134のセ・リーグ記録。
若菜がシーズン17捕逸のプロ野球タイ記録。

シーズンは61勝60敗9分け、勝率.504で4位、3年連続Bクラスで終えた。
優勝は広島。
小林は巨人相手に8戦全勝、22勝9敗1セーブ、防御率2.89で最多勝、最優秀投手、沢村賞に輝いた。
掛布は四番打者に成長、藤村富の球団記録46本を上回る48本塁打を放ち、初の本塁打王を獲得。
新外国人・スタントンはセ・リーグ新記録の136三振を喫するなど期待外れであった。
観客動員は165万8000人の新記録。 

11月27日

ドラフト会議で最大の目玉だった早稲田大・岡田彰布を1位指名、6球団競合の末抽選で引き当てた。
ほかに北村照文らを指名、獲得。 

12月15日

岡田の阪神入団発表。

この年、田淵をモデルにしたギャグマンガ「がんばれタブチくん」連載開始、実在の選手が主人公となった画期的な作品で後に映画化もされた。

1980年(昭和55年)

この年太平洋野球連盟が「パシフィック野球連盟」と改称。

この年、阪神タイガース私設応援団が正式に発足、団則を定めた。 

1月25日

小鶴誠、野球殿堂入り。 

2月11日

米アリゾナ州テンピでのキャンプに出発。
球団としては昭和38年のフロリダ州レークランド以来17年ぶりの海外キャンプであったが、例年雨量がきわめて少ないこの地区が連日豪雨に見舞われ被害が続出、地元紙は「阪神タイガースが雨を運んできた」と報じた。       キャンプ計画も大幅な変更を余儀なくされた。(3月15日帰国)       同日、二軍は安芸キャンプに出発。

2月16日

監督・ブレイザー、キャンプ地・テンピで新外国人ジョン・ヒルトンの獲得を発表。

3月22日

第五十一回タイ阪急定期戦(姫路・西宮)、阪急1勝1分け。

3月29日

第二十九回対南海定期戦(大阪)、1勝1敗1分け。 

4月18日

巨人戦(甲子園)で掛布、走塁時に左膝半月板を損傷、救急車で病院へ運ばれ長期欠場となった。 

5月1日

巨人戦(後楽園)、岡田が新浦寿男から左中間へ決勝のプロ初本塁打。 

5月10日

小津が不振のヒルトンを解雇。

5月14日

外野手のブルース・ボークレアを獲得。 

5月15日

ブレイザー監督、辞任。
ヒルトンの不振、岡田の起用法を巡り、ブレイザーの自宅にはカミソリ入りの手紙が届くなど、ファン、マスコミ、フロントから「岡田を出せ」といった声が高まってのことだった。
後任には、ヘッド兼打撃コーチの中西太が就任。 

6月8日

広島戦で江本が1000奪三振達成。 

6月14日

広島戦で掛布が150本塁打達成。 

7月14日

下田コミッショナーがプロ野球用ボールの反発力に関し、反発力が異常に高いボールメーカーに対し善処を要望。 

7月19日

オールスター・ゲーム第一戦(西宮)で岡田が阪神の選手で初の初打席本塁打。

8月15日

文部省、社団法人日本プロ野球選手会設立を認可。 

8月16日

巨人戦(後楽園)、江川・小林が先発で対決、江川自らにタイムリーを喫するなどし3対5で敗戦、176球を投げた江川が完投勝利。 

8月17日

巨人戦(後楽園)で、三塁走者・竹之内、二塁走者・岡田、一塁走者・若菜が三重盗を記録。 

8月19日

広島戦で岡田がセ・リーグ20000号となる本塁打を放った。       掛布が途中から腰痛で休場、以後このシーズン大半を欠場した。 

10月9日

小林・江川の2度目の直接対決となったこの日の巨人戦(後楽園)で小林は中畑清に死球を与え与死球20のセ・リーグ新記録。
小林、江川共完投したが0対3で敗戦。 

10月11日

米教育リーグ(フロリダ州)に近鉄、阪急、広島、との混成チームで参加。 

10月12日

中日とのダブルヘッダーで真弓が第一試合は都裕次郎、第二試合は星野仙一から先頭打者本塁打を放った。
ダブルヘッダーでの記録はプロ野球第一号となった。

シーズンは54勝66敗10分け、勝率.450で5位、広島が優勝。
岡田は真弓の29本に次ぐチーム2位の18本塁打を放ち、打率.290をマーク、投票総数215票中214票を得て新人王に選ばれた。
掛布は左膝半月板損傷や腰痛など故障に悩み、出場70試合、本塁打11本だった。
全日程終了後、中西は健康問題を理由に辞意を申し出るも、球団はブレイザー退任の急場を救ったとして慰留に努め、江本のトレードを条件に留任。

11月26日

ドラフト会議、中田良弘を一位指名。

この年、「阪神タイガースの歌」がビクターから声楽家のバリントン歌手・立川清登(澄人)の独唱で「六甲おろし」として発売され球団歌として公認された。


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