徳川家康(とくがわいえやす)たちの脱出 その3(4分割)


本多平八郎(ほんだへいはちろう)の報告では、
「これからの先の道は、光秀(みつひで)の手の者たちが殿を捕えようとしておるようです。」 
そりゃあそうさ、明智光秀(あけちみつひで)は自分のリーダーだった信長をやっつけていたんだからね。強い武将の家康(いえやす)が京都見物していると聞いたら、今なら家来も武器も持っていないのだから、簡単に討ち取れると思っているよね。信長と家康をやっつけてしまったら、強いお殿さまになれるもんね。 
「さぁ、どうしたものか。ここから逃げ行く道はあるものか。」 
「私が先導いたそう。特に京の付近、河内(かわち)、大和(やまと)、伊賀(いが)、伊勢(いせ)あたりの者で私の申し継ぎを受けた者が多ござる。在所在所(ざいしょざいしょ)でそれらの者を頼めば、よもや背く(そむく)ことはありますまい。」 
と長谷川秀一(はせがわひでかず)はその時言ってくれたんだよ。この長谷川秀一って人はね、織田信長の家来として「申し継」(もうしつぎ)という仕事をしていたんだ。信長にいろんなお願いをしに来る人たちの話を聞いて、それを信長へ取り継ぐ仕事だったのさ。 
「では、道筋は長谷川どのにお任せしよう」 
家康たちは、大急ぎで堺の町から逃げ出しだんだ。 
 
先頭は、本多平八郎(ほんだへいはちろう)だった。安全に逃げられるように頑張ったのが、長谷川秀一だよ。農家の家に行って農夫の服を借りて、皆農夫に変装して逃げたんだって。そうさ、家康もボロの野良着を着て、逃げて行ったよ。淀川(よどがわ)沿いの枚方(ひらかた)は大坂と京都の真ん中あたりだった。ここから家康たちは真東へ走ったよ。田んぼの中を突っ切って、山の中へ入っていって坂を駆け上ったり、駆け下ったりしながら、休まずに進んでいったよ。山間(やまあい)の尊延寺(そんえんじ)村という里へ来た時には日が暮れてしまった。

今日はここまで、また明日。ポン!

いいなと思ったら応援しよう!