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信長と干し柿(その2 全2回)

れきしー  武将たちにも分けたことがあるんですか?
信長 元亀げんき2年(1571年)9月だったか、近江金ケ森城『滋賀県守山市』を攻めた時にはの、前田利家の家臣の村井長頼ながよりが1番槍の光明をたてたんでな、干し柿を五つとわしがかぶっていた南蛮笠をくれてやったんだ。喜んでおったわ。
れきしー 干し柿がご褒美になったんですね。
信長  ああ、そうじゃ。思いだしたわ。天正4年(1576年』木津川の河口でな、毛利の水軍と戦った時じゃ。真鍋貞友まなべさだともは手柄をたてて死んだのじゃ。子供がいるというので後でよんだのじゃ。真鍋《まなべさだなり》はまだ九つじゃった。かわいい顔をしておったわ。床の間に干し柿があったからの、くれてやれと堀秀政ほりひでまさに言ったのじゃ。秀政のやつ、2つ貞成ばかりを持ってきたからの。もっとくれてやれといったのじゃよ。12,3持ってくるとな、貞成はかまの裾を広げて干し柿を入れておった。まったくもってゆかいであったぞ。わっはは。
れきしー  戦いに行く時にはいつも干し柿を持っていくのですか?
信長  あたりまえだ。あれは腹のたしにも、水のたしにも、褒美にもなるからの。しかもうまいし、すぐにどこでも食えるぞ。甘くてうまいからのお。わっはは。
れきしー  今日は21世紀令和の干し柿を持ってまいりました。おめしあがりください。ありがとうございました。

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#日本史 #安土・桃山時代 #織田信長

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