酒樽の道 その3(全3回)


奉行所の役人の問いに対して、
もちろん村人たちの気持ちは一つだったよ。
「水の方が欲しゅうございます。」
と、はっきりと答えたんだよ。そうさ、あの水があったからこそ、お嫁さんや子供たちや年老いた爺ちゃん婆ちゃんまで、皆助かったんだ。あの水のおかげだったんだ。

この後ね、このことは豊臣秀吉(とよとみひでよし)に伝えられていったんだ。そうして、秀吉からは、こんなお達しがあったんだよ。
「鳴尾村(なるおむら)を思う心は立派ではあるが、法は曲げられない。酒樽の数だけ人の命を切る。しかし、末代まで水は鳴尾村にやろう。」
25人の農民は囚われ(とらわれ)の身となって、大坂の牢獄(ろうごく)で死罪の日を待つことになったんだ。牢獄のそばではね、この農民たちの子供たちがにぎやかに、朝に昼に晩にと歌を歌っていたって。お嫁さんたちも涙を流しながら歌を歌ったりして、おとうちゃんって胸の中で叫びながら歌を歌ったのさ。罪びとを呼ぶことさえいけないことだったから。

そして、天正20年、1592年10月12日。全員が死罪となってしまったんだよ。これらの人たちはね、義民(ぎみん)と称えられているんだ。今でも鳴尾村の田畑を潤わせているのも、この25人の命を捨ててくれたおかげなんだ。

今、弥十郎(やじゅうろう)たち、25人の人たちは、甲子園球場の近くにある浄願寺(じょうがんじ)で安らかに眠っているんだって。そして、酒樽で水を鳴尾村に入れた場所はね、甲子園北郷公園(ほくごうこうえん)のところに義民採水の地の顕彰碑(けんしょうひ)としてね、義民碑が建てられているんだって。そして、命日には今でも多くの人たちがお参りに来ているんだって。素晴らしい人たちがいたんだね。


今日も読んでくれてありがとう。
お休み、ポン!

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