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【ブルアカ】「玄龍門」と「門主」の違いについて(規定的に、職責的に)

ブルーアーカイブイベントストーリー「月華夢騒」のネタバレを含みます

 数多の先生に悲鳴をあげさせたイベントストーリー「月華夢騒」において、初見の方々の悲鳴を楽しくうかがっていましたが、「違いを明確に言語化」しにくい箇所があるようで、ぜひ補助線になればと思い簡単なnoteを作成しました。

 ここ、「何がどう違うのか」を規定的に具体的に強調して、門主様の立場を明らかにしておくことは非常に強い意義があると思います。

 具体的には、「竜華キサキ」という生徒がどのような立場に置かれているのかを法度的に、その苦境を見て取れるかと思います。

 文書の名義が「玄龍門」と「玄龍門の門主」であることの何が違うのか。全く違います。これは、山海経が特殊なのではなく組織というものはそもそもこのふたつを全く別物として文書で扱うものです。

 具体的に行きましょう。つまり具体例を出します。

 令和6年4月1日現在の京都大学公印規定の別表において、明確に「大学印」と「総長印」は別個として扱われています。これは東大の公印規定でも九大の公印規定でも同じことです。

 民間においても代表取締役社長の印(丸印)と社印(角印)は別であり、「角印では書類は受け付けられれない」「丸印と角印を両方押してこい」などと昔の公的機関に(カスみたいなことを)言われ地獄の作業を行っていた民間の書類作成者は少なくないでしょう。

 日本における取り扱いは以下がわかりやすいです。

 印鑑登録の話などは措きましょう。あくまでキヴォトスの話なので、一般的な話で進めます。

 基本的に公務における最終責任はトップにあります。しかしながら、トップが全実務を遂行することは現実的でありません。

 そのため、職務権限は規定により委任・移譲できます。たとえば以下のようにです。

 先に挙げた他大学で検索しても同様の規定が見つかります。

 それを行ったところでトップが対外的責任を完全に免れるかというと、上の規定に明記されているとおりそんなことはないのですが、権限と責任を明記することで誰が起案し、決裁過程に誰がどのように入り、誰が最終的に決裁を行ったのかが明白になります。

 権限がおりているので、ルールで正当化されたものとして、トップの目の届かないところで決裁が行われる問題は多々あります。繰り返しになりますが、それはトップを十分に免責しません。ただし、「誰が起案し」「誰が決裁したのか」は「決裁文書」などとして明白に残ります。大きな組織の小さな案件において、往々にして承認者としてトップの名はありません。もちろん大問題が起きればそんなこととは関係なくトップの名において謝罪が発生するわけですし、トップの挿げ替えなどもありえるのですが、実務上の有形無形の責は多くの場合「実務上の起案・決裁に近いところ」に重くのしかかります。

 これは感覚的に分かりづらいでしょうから、架空で問題案件を作ってみましょう。

 汚職的な問題のある「案件1」を「一般係員」が起案
 小規模案件のため「係長」が「案件1」を承認・発効
 「案件1」に汚職的な問題があることが発覚
 「案件1」を含む案件を総括する課の長である「課長」に報告
 「課長」より部全体を総括する「部長」へ報告
 「部署」として「本部」へ報告
 「本部」の「案件1」担当部署にて確認
 同様に報告に上がっていき、極めて重大であれば「代表」まで報告
 「代表」より公的な発表

 これは問題発生の流れのほんの一部です。並行して人事的な処理もあるでしょうし、「案件1」の処理を規定している内規の担当部署も牽制のために内規の修正要否を検討するかもしれません。監査部署はこのような案件を内部監査で発見できるよう実務方針を改めるかもしれません。

 とにかく、多様な人間が責を負って動きます。起案の段階で「一般職員」がやらかしていること、「係長」が決裁してしまっていることは現場レベルで簡単にわかるでしょう。そこから先、それぞれの立場でそれぞれが責任を負っていて、職務を遂行しています。「誰がどこまでどのように、何に正当化されて責任を負うのか」は規定されていて、それは組織的です。

 対外的には最終的にトップが矢面に立ち、委員会などでもトップの処分やむなしとされたとしても、最終責任を問われる先が非常に遠いことがわかるかと思います。たとえば、軽微なミスしかない案件なら、「部署」は課長、「本部」には迷惑をかける担当係あたりまでへの報告で済むことが多いです。「形式的なことを言えば」トップに最終的な責任はあるのですが、「実際の実務では」問われることも認知されることもありません。そんな軽微なことでトップの責任の軽重は今回について云々、などと毎回毎回していては実務が回らないわけです。精々総括的です。

 さて、以上を踏まえて。太字にした箇所がありました。

職務権限は規定により委任・移譲できます

 重要なことは、「できます」です。たとえば現場の予算管理者が事務に判断を仰がず発注「できます」とされている少額の契約について、しかし規定的に支出できるかどうか現場ではわからないので事前に経理の決裁を経てから発注することがあり得ます。予算管理者が自己の判断で発注できるとしても、それは「できる」のであり「しなければならない」わけではありません。

 たとえば、玄龍門がレッドウィンターを招くとき、最終的な責任が門主にあるとしても、職務権限が下位に委任・委譲されているなら、実務上玄龍門の当該部署がその案件について決裁することが「できます」。

 その場合、キサキが述べていたように文書名義人は「玄龍門」になるのでしょう(決裁フローにいないトップの職と名前をトップの確認なく名義として使うこともありますが、玄龍門の今回の場合は、そのような処理にならない規程のようです)。イベントにおける文書は「チェリノ書記長」宛となっているようですが、「玄龍門」が作成した場合「レッドウィンター事務局」宛になるのか「チェリノ書記長宛」で送りつけてくるのかは謎です。

 さて、以上は「玄龍門の職掌が決裁を通した」場合です。

 玄龍門の全体的な空気としては交流会には決して肯定的ではありません。「通常のフローでは決裁が通らない」ことが十分考えられます。

 もちろん、門主であるキサキの肝煎りというなら通せてしまうでしょう。しかしそれは、「不本意な決定」を「玄龍門」として発することになってしまいます。通常フローだと門主様が望むのでやむなく決裁するわけです。

 しかし、そもそも下の権限とは「できます」にすぎませんので、「適切なフローさえ踏めば」上位の人間が上位の全責任で処理できます。

 つまりこうです。

 起案、門主様
 決裁、門主様

 そもそもの権限はトップにあるので「適切なフローさえ踏めば」これで済みます。一般的な実務処理は細かいフローに拘束されていることが多く、現実的にこのようなことはなかなか難しいことが多いのですが、キヴォトスにおいて特に門主は権限が強いとのことなので、総則的にフローを無視できるか、あるいは各規定に「門主が特別に認める場合」のような例外規程が他学園より甚だしく、フローを無視できるレベルで認められているのでしょう。

 このような処理を行えば、決裁に本来の職掌部署は関わりません。責任は全て「門主」が負います。今回の交流会を起案したのは間違いなく門主ですし、名義も「門主」のため対外的な責として、矢面に立つのは「門主」です。

 重要なことは、「門主」は「私人・竜華キサキ」とは区別されることです。たとえば思い出されるべきはエデン4章において聖園ミカの救出を緊急的に依頼した桐藤ナギサです。あのときの彼女が行おうとしたことは「私人・桐藤ナギサ」としての嘆願であり公私混同であり、招集された皆は明らかにそれを「聞かなかった」こととして、実際にトリニティが行ったのはナギサの本来の願いにおいて一言も口にされていない「アリウス修復作戦」であり「ティーパーティーのホスト・桐藤ナギサ」の決定として何らおかしなものではない体面に修正されています。

 あるいは、キサキ本人のことでなら体調に関し、サヤや先生に秘密にするよう、無理を許してくれるよう頼んでいるのは「門主」としての公的な依頼ではありません。あのときの彼女は「門主」はそうあるべきだとしながら、「門主」としては命じていません。「生徒」であり「患者」です。

 レッドウィンターとの交流について責任を負っているのはあくまでも「門主」です。竜華キサキの個人的な判断ではありません。「門主」とは「山海経高級中学校」の生徒会長であり、「玄龍門のトップ」です。組織の長、代表性を持つ者として「門主」が「玄龍門」や「山海経」に不安を抱かせる決断を、それでも山海経にとってそれは必要だからと決断しているのです。ここは彼女が非常に重い責任を負っている箇所なので、「組織長」であることの重さをぜひ見てほしいです。

 その「重さ」は武器でもあり、実際に黒い君主として実行に成功しています。そして、体調について先生やサヤに「門主」の責を果たそうとしながらも、決して二人に対して「門主」を規程的には武器にしなかったことも、大切なことです。「門主」として自分はこうしたいと主張しながら、頼み込む相手に「門主」を規程的には振り翳さないことで、誠実かつ切実に竜華キサキが二人に頼んでいることがわかるかと思います。

 もうひとつ、「肩書」と「伝統」を照らす良い機会なので再掲しましょう。

 上の公印規程においては「総長」の印と「学長」の印の二種が存在します。大学の長の印であり、二種あるのはかなり奇妙に見えるでしょう。

 これはまさに「伝統」の話です。

 学校教育法では大学に置かなければならないのは「学長」です。

 しかし、「総長」を頑なに使いたがる大学は多いです。実際公印規程にも「総長」印が存在しますし、規程上も幾度も「総長」の名があらわれます。

 それは、帝国大学令では「総長」を置くことと定められていたからです(学長総長問題で先に「大学」と述べていたことにあぁん? とここでなった人は「話が早い」です)。

 伝統的には「総長」なので、基本「総長」を使いたがっているわけです。そして、国との受託契約研究などで「法律上の最高責任者は学長なのだから学長しか認めない」と言われると「学長」を使うわけです。

 こういった「肩書」を見ると「この人は今何の立場で物を言っているのか」によく注目できるはずです。特に、キサキはその点自覚的なのでかなり気をつけて見るべきです。

 また、この「肩書」の話はキヴォトスに限っても目立ちます。キサキが文書を送った相手は「生徒会長」のチェリノではなく「書記長」です。チェリノの長ったらしい自己紹介でもまず「生徒会長」がでてきますが、公的に一つ地位を選んで彼女を呼ぶなら「書記長」でしょう(モチーフ的にも生徒会長と書記長の職が別に存在し、書記長を優先して扱うことはあまり不思議はありません)。その上でチェリノは通常「チェリノ会長(書記長でなく)」と呼ばれるので慎重な取り扱いが必要です。

 こういった部分を見るとカグヤについても幾分わかりやすいでしょう。彼女が指摘しているのは「伝統」「慣例」への違反であり「法度」そのものを犯しているとはキサキに指摘しません。先に述べたように、おそらくキサキは「門主の権限」(つまり規則上正当化されているもの)のあくまで内側で処理を行ったのでしょう。

 しかし、繁文縟礼的な形式主義的規則によくあることですが、「規程における例外処理を行う場合、具体的にどうするのか」定まっていないことが多いです。とりあえずルールが先にあり、やむを得ない状況があれば、そのときに審議したり正当化の文書を付したりしながら、なんとかその例外処理を「正しい」と通し、その前例を今後は例外処理の正統解釈として用いたり、あるいは前例に対する監査上の指摘からその解釈が修正されることもあります。また、前例主義ではなく細則や通知で制度化されることもあるでしょう。

 山海経的には「まず通例処理」でしょうし、例外処理にも「例外処理の手順、前例」が「伝統的」には要るでしょう。そういった慎重さがなければそもそも法治が困難です。しかしながら、「伝統的に使われていない権限を使おうとする」ことや「法度に手を加える、新たな解釈をする」こと自体が「非伝統的」でしょうから、キサキの時間制限も考慮すると大鉈を振るわざるを得ません。しかし、それをそのまま正当化すると「門主」が独断しているだけで、「伝統」として定着しません。また、「門主」による濫用の危険もあります。

 なので、交流会などを通じて外に触れ、「ただ変わらない」ことが伝統なのではないと示しつつ、自分自身が天、民に望まれていないなら除かれることも「よし」としてキサキは「門主」の大鉈に最終的なセーフティーもつけています(チェリノはそれを「よし」としていません。対立、クーデターを認めつつ、彼女は体制側として「対決をよし」としています。潔く散るのではなく喧嘩するタイプです。「門主」は他学園と比して強く、比較的有利だからこそ悪であった場合より除かれにくく(悪でありながら勝ってしまいかねない)、なかなかそういった態度をとることは難しいでしょう。そういった意味でもクーデターに対決する体制を見るという点で、意義ある交流会でした)。

 「門主」には複数の意味があります。たとえば交流会を行ったとき、それは「公的な権力」の色合いが強いです。しかも「代表性を持ちながら、代表される組織や地域の空気を必ずしも代表していないことに自覚的」です。キサキ本人が「門主」の責任を果たそうというとき、それは「山海経を少しでもよくしていこう、そのためにできることをしよう、山海経の責任を負おう」というものです。その責が及ぶ範囲は現実における古代レベルで重いです(明らかにコントロール外、花ひとひらレベルの自然現象をも含む)。「門主」に「伝統的」に求められているものは「伝統の維持」であり、「伝統」の意味するものもキサキと「伝統的な」「伝統」では異なります。

 たとえばキサキのEXスキルにおける「格物致知」は『大学』に記載のある、つまり四書五経の権威を持つ伝統的な文言です。しかしながら、『大学』においてどう解釈すべきか強い問題意識の対象とならなかった「格物致知」、ほとんど典拠において文言を割かれていない箇所はその後解釈的な論争になります。「玄武商会」のようにがっつりと外を取り入れるのではなく、あくまで「伝統」として極めて古典的な典拠から、しかし後に論争的になる部分を引いてEXスキルとしているのは、「伝統」に立ちながら新しい風も取り入れようとしている、とても彼女らしい在り方と言えるでしょう。

 山海経のストーリーを読むにおいては、正しい語義、正解を考えるのもひとつの楽しみかもしれませんが、『今この子が言っている』「山海経」とは何なのかや、「伝統」とは何なのか、「変化」とは、「門主」とは何なのかを『できるかぎり【この子が】何を言っているのか正確に理解しようとする』ことも読みとして面白いと思います。その子の発言の正当性をいったん脇に置き、「そもそも何を言おうとしているのか」とまず向き合うわけです。つまり、

 徹底的に脳内でこの選択肢を出して唸りながら読むのもひとつのありかたというわけです。

 特に竜華キサキは「今の山海経」「こうなってほしい山海経(伝統的な立場において、こうなってほしい山海経とは「今の山海経」であり、「この区別」があること自体、玄龍門的には特徴的なことに注意してください)」「伝統的にあるべき門主」「政治的なリスクの中での門主」「法度上の職権・職責を持つ門主」「明文規程にない、山海経が求める門主像」「明文規程にない、竜華キサキがそうありたい門主像」「玄龍門がよく振り回す「伝統」」「竜華キサキがそうあるべきと考える「伝統」」などなど、慎重な立場で慎重に言葉を選び、皆の努力を認めつつ自身の方針も伝えようとなるべく言葉を発しています。「門主(つまり玄龍門の代表性を持つ者としての門主)」としては口にできない(けれど竜華キサキは「今の山海経」の課題と思っていること)ことを、先回りして「言えないよね」ときちんと理解し、「話が早く」あることはこういった彼女の苦境においてとても、とても大きな救いになっていました。

 彼女の表現の違いを「わかる」場合、キサキの反応は以下です。

 彼女のスタンス・言葉の慎重さを理解した上で、「連邦捜査部シャーレの先生」が場にいるだけで、ほぼ孤軍奮闘している彼女にとっては本当に大きな助力です。「門主」の危地は明かせば喰われるものなので、明かす相手は慎重に選ばなければなりません。その相手が「話が早い」上に味方であり、相応の立場・正当性も(たとえば門主の私室に入れるほど)公的に持っているならばこれほど助けになることはありません。

 もっとも、理解し、共感しすぎているからこそ、最終編などで示されたとおり最終的には自己犠牲的なところのある先生は、キサキに秘密を共有されて悲痛なことになってしまうのですが。

 ――というわけで、何を申し上げたいかというと、もうすぐ新イベントや絆ストーリーが来るので門主様の私室理解者面をなんとか達成するのだと皆で七転八倒しませんかというお誘いです。

 理解できない他人を通じて、己の理解を得ることができるのか!

 僕はなんかそれっぽくしたくなったらすぐ古則使う!!!

 楽園の存在証明の宿題も背負いましょう!!

 理解できないとしても、理解しようとする努力を諦める理由にはならない……!

 たとえば、レッドウィンターとの交流についてはお誘いは「門主」からと明示してくれている彼女ですが。玄龍門、玄龍門と言いながら、

 シャーレを招いているのも「門主」であること、依頼は「門主」からであり最近来すぎ、近すぎと思っている「玄龍門」に依頼者としての責は負わせず、「なにかあれば門主のせい」と泥を被る覚悟で動いている様子を見ると頭がおかしくなります。

 グループストーリーで救いを得ようとも明けるまではメンテナメンですからね。

 発狂しながら待ちましょう!!!

 シャーレで責任を負っているのは先生だから同じことかもしれないし、通例的に同一視されていることも多いけど、門主様ほど意識的なら、依頼人が「玄龍門の門主」の場合「シャーレの先生」を宛先にしてがっつり責任を強調して乗っけてくれてもいいよ門主様!!!!!!!

 門主様!!!!!

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