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父に向き合えているか、どうか

父がわたしの想像よりずっと怒りっぽくなっているらしい。脳梗塞の影響で失語症をわずらい、ひととのコミュニケーションが取りにくくなったこともあって苛立ちがつのるというのもあるようだが、どうも性格自体に感情の起伏が激しくなっているという。

父はもともと温厚で、無口でたまに面白いことを言うタイプのおじさんとしてわたしの記憶の中にはおり、ちょっと怒っているっぽいな、と雰囲気でわかるくらいならまだしも、声を荒げて怒ることなど見たことがなかった。それが、なにか気に入らないことがあるとすぐに大声で怒って文句を言ったり、どうせ俺のせいだ、と言って落ち込んでしまったりするのだそうだ。

この間も病院の診察で父の思っていたことと違うことがあったらしく、父が怒鳴ったところ、心臓の(父はもともと心臓が良くない)担当医に「入院中もこの調子だった。うちは協力的な患者じゃないと受け入れられない」と言われてしまったそうだ。
協力的な患者という言葉に強烈な違和感を覚えながらも、いろいろ考えてみた。

わたしは怒ったり怒鳴ったりする人が得意ではない。なんでそんなに小さなことで大きい声を出したり、苛立ちを見せたりして相手を威嚇するんだろう、と思っていた。

ただ、それが病気の後遺症であるのであれば仕方のないことだと思う。後遺症であることを知らない人が驚くのは仕方がない。知っていても、わたしはたぶん父を前にしたときはっとなってしまうだろう。

ただ、医療従事者は脳の病気の後にそのような性格の変わり方をするということをもちろん知っているはずで、「協力的な患者」という言葉は当てつけのようにしか思えなかった。
と、身内としては思ってしまうのだが、実際に怒ってしまって治療を全く受けようとしないとか、本質ではないことに怒って治療に関する手順が止まったりすることは医者に対してストレスを与えると思う。お医者さんというのは全ての科のことを勉強して就いている職業だと思うが、専門の科ではないこと、しかも性格に関することで医療に対して反抗されるのはかなり気分が良くないとは思う。

それでもさ〜〜〜〜ってやっぱり思ってしまうのだが、わたしは父にまだ会っていない。
母は、わたしが実家に帰る期間を設けようと話した時に、父が怒りっぽくなったということをかなりしっかり説明する文章を送ってきた。父の怒りっぽさが相当なものであるということを考えざるを得なかった。

たとえば認知症であれば、本人に悪気も自覚もあまりない(あんまり認知症について知らないので間違った知識で書いてたらすいません)。
けれど父は認知ははっきりしている。はっきりとものを考えられるけれど、ことばのコミュニケーションが難しいから、なんでいまここで待たされているのか、とか、なんで病院を転院したのにまた前の病院で薬をもらわなきゃいけないのかとか、そういうことがどのように話しても部分的にしか話を理解できない父にはうまく伝わらず、答えのはっきりしない疑問があることで気持ちがたかぶって父は苛立ちを起こしてしまう。

書いていて難しすぎる!と思った。日常のちょっとした話のすれ違いでも父は怒るのだという。別の話をはじめているのだとわからず、前の話の続きだと思って聞いてしまっていた父に、あ、ごめん、それは別の話で、と訂正してももう遅くて、怒りモードに入ってしまったりするそうだ。

いつも明るく接してくる母が(それでも書きぶりはポップなものである)愚痴のようなものを送ってきたことには驚いた。そんなに、生活が一変してしまっているのだ。
わたしは一瞬母にストレスをためないために実家に帰ったほうがいいのかなと思ったが、わたしが戦力になる可能性は低かった。母の話を聞いてやることはできるが、父のストレスを軽減させるための何かを一緒に暮らしながらやっていくことは難しいと思われる。

それはわたしが起きている時間の他はほとんど寝たきりで(そりゃそうだろと書いてから思ったが)過ごしているからだ。基本的に横になっていて、スマホでできる創作や作業をして、パソコンを使ったり起きていないとできないことはデスクに向かってやる、という生活スタイルはいまの父にとって斬新すぎるだろう。鬱病が治りきっていないわたしが帰ったとするとわたしの鬱はひどくなり母の心配は2倍になり父の怒りはわたしにも向くだろう。それは誰にとってもいいことではない。

わたしには怒りっぽい父が想像できなくて、そして人が怒っているところに敏感なわたしははっとなって何もできなくなってしまうかもしれない。わ〜〜役に立たない人間〜〜文筆業は人のことを書いて嫌われて死ぬまで蹴飛ばされる運命〜〜(そんなこと誰も言っていないが勝手に最近そう思っている)

この気持ちを書いておくことで誰かのなにかに触れるものがあったらと思っていまこうやってわりとはっきり我が家の事情を書いているのだが、とんでもねえことをしているなっていう自覚はあり、親族をネタにして切り売りしている、と思われても仕方ないなという部分がある。親族の気持ちはどうなる、と詰められたら何にも言えなくなってしまう。

わたしはひとのことを書くことで何がしたいのか。救いたいのは自分であって誰かでもあるっていうのを言い訳のように使っていないか。

自分のことを書くとどうしても周りの人のことを書かなくてはならなくなってくる。その解像度の加減が難しい。

こうやって言い訳をいっぱい並べているのは父に会うのが怖いからだと思う。
父に会って、本当に怒っている父を目の前にして、理屈を並べても通じない(かなりの部分を父は理解できない)、として、その父を以前の父と同じと思うことができるかがわたしにはとても不安なのだ。

父の変化がわたしをずっと揺らしている。本が読めなくなったこと、それから、怒りっぽくなったこと。どちらもわたしはまだ受け入れられていなくて、なんか、そんなのって家族なわけ?と思ってしまうことすらある。
母は父の変化と共に時間を過ごしている。弟は連休に父に会いにいく。わたしは台風の気圧変化で調子が悪くて飛行機をキャンセルした。

逃げている。と思う。母の愚痴を聞いてそれは先生が悪いわ〜とか言ったりして、でも、わたしは父に向き合っていない。そしてなんか文章ばっかり書いている。

父と向き合いたい。でもそれは今じゃないのかもしれない(と思いたいだけなのかもしれない)。

家族4人のLINEグループにカレーの画像を送ったらお父さんがおいしそう、と返事をしてきて、文字が打てている!と思ったら「お母さんと一緒に打ちました〜」と返事が来たりする、そういうところから少しずつ、やっていくしかないというふうに今は思っている(そんな甘ちゃんでいいの?)

台風がまた来るのか、気圧変化のせいか、昨日の夕方から調子がよくない。またわたしはふとんの中でいらんことを書くのだと思う。

ものを書くために使います。がんばって書くためにからあげを食べたりするのにも使うかもしれません。