句集『記憶における沼とその他の在処』(岡田一実)の感想
岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(以下、『記憶沼』)を読んだ。
とてもおもしろかったです!!
わたしは句集を読むと寝るという悪い癖があるのだけれど(寝るなよ)、『記憶沼』は息をつく間も無く読み通して、もう何周も読んでいる。
全体にふしぎと水のイメージが漂っていて、それをタイトルの「沼」という文字がよく表しているように思う。沈んでいかない水。すこしずつ入れ替わっているのかもしれないけどその入れ替わりはよくわからない水。そういう感じがする。
わたしたちには目玉がある
目、と言うと自分のもののような気がするのに、目玉、と言った途端ころりと体から離れて感じられるのは面白いことだ。
わたしもあなたも目玉を持っているのに、目玉、という言葉にはどこか他人事のような感じをおぼえる。
でも『記憶沼』の目玉を見ると、わたしたちは目玉を持っているのだな、と強く思わされる。
煮凝を纏ふ目玉を転がせば
(以下、句の引用は一字下げで表します。出典はすべて『記憶沼』)
心地よい恐ろしさとリアルさがある句だ。
この目玉は、作中で目玉を転がしている人の目玉ではないだろう。おそらく煮凝の元になったものの目玉だとわたしは思う。
でもなんだかあーっと目を閉じたくなってしまうようなリアリティがありませんか。
もしこれが自分の目玉だったとしたらどうしよう、という類の嫌さがちょっと追いかけてくる。ような気がする(言い切れなくてすいません。あんまり句の感想を書いたことがないので全体的に弱気で進んでいきます)。
それはたぶん煮凝のせいだと思う。目玉にまとわりついている煮凝から血肉までを想像できる力がこの句にはある。と思う。
もう一句目玉の句を挙げる。
見るつまり目玉はたらく蝶の昼
蝶を見ている人の目玉がはたらいているのだと読んだ。蝶を目で追いかけているところは本当に、目玉がはたらいているという感じがする。
はたらくがひらがななのもよい。ビジュアル的な見え方としてもうまくはたらいているし、はばたくに語感が似ているところもナイスだ。
この項の最初に書いたが、わたしたちは目玉を持っていて、普段からそれを使っているのに、目のことを目玉だと思うことがあんまりない。目の玉感について思いをはせる事が少ない。
この二句は、あ、目玉あるじゃん、目は目玉でつまり丸いじゃん、と思わせてくれた句だった。
水は死だし生だ
ということを考えた。
生きるのに水は必要不可欠で、でも溺れると死んじゃう。死体は(たぶん)水のせいで腐っていく。
かたつむり焼けば水焼く音すなり
わたしはかたつむりを焼いた事がない。いわゆるエスカルゴも自分で焼いたことはない。サイゼリヤで食べたことはある。
けれどわかる。かたつむりは焼くと水を焼く音がする。
水を焼く音というのもよく考えたら不思議な表現だ。
これは死んでいく音なのか生きているゆえの音なのか区別が難しい。というより、どっちもを含んでいるようだ。生と死の両方である状態。それが水。
わたしが下手な感想を書いていくことでは良さが伝わらないのではないか
という気がしてきたので、シンプルに好きな句を二句抜き出します。
コスモスの根を思ふとき晴れてくる
文様のあやしき亀を賀状に描く
この二句は、『記憶沼』から代表的な句を抜き出せ!といわれたときに挙がってくる句ではないかもしれないけど、すごく好きです。
まとめ
『記憶沼』面白いので買いましょう。
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ものを書くために使います。がんばって書くためにからあげを食べたりするのにも使うかもしれません。