日本人とクリティカルシンキング

本記事を読むと、

クリティカルシンキングの本質を再確認できる

・日本人としてのクリティカルシンキングに対する態度を考えることができる

さて、皆さんはクリティカルシンキングという言葉を聞いたことはありますか。おそらく今は多くの人が耳にしたことがあると思います。

これから勉強してみようと思っている方、クリティカルシンカーになろうと日々様々な教材を用いて独自に勉強されている方が多くいらっしゃると思います。

そこで本記事では、クリティカルシンカーになるため、そしてクリティカルシンカーを育成するために重要なことであり、しかしあまり現時点では着目されていない点についてまとめます。


クリティカルシンキングスキルの文化的差異

その点とは、クリティカルシンキングスキルは文化的背景に影響を受けるということです。

つまり、日本人には日本人の、アメリカ人にはアメリカ人ならではのクリティカルシンキングスキルの捉え方が存在します。では日本人にとってのクリティカルシンキングの様相について考えてみましょう。

そもそも、クリティカルシンキングは「批判的思考」と日本語では訳されます。ですが、きちんとその本質を知っている方ならともかく、日本語を母語とする人はネガティブな思考法であると捉えてしまう人が一定数見受けられる気がします。

ここで「批判をする」ことの定義を見てみましょう。Goo辞書によると、批判とは、

ひ‐はん【批判】 の解説
[名](スル)

1. 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」

2. 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」

3. 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。(https://dictionary.goo.ne.jp/word/批判/)

このような意味です。ネガティブな意味を持つのは「2」であり、「1」と「3」に関しては、単に物事に関する適切な評価を下すことであるということがわかります。


クリティカルシンキングの定義

つまり、批判的思考(=クリティカルシンキング)とは「多角的に物事を内省的に捉えるための思考」のことであり(Ennis, 1987)、相手の言動を批判することだけでないのです。

この「批判」の意味を取り違えると、建設的な意見も全て「否定的な意見」になってしまいます。

結果的に、この他者から意見を受ける・する行為を、日本人はあまり好みません。なぜなら幼い頃から、他者との調和を重んじることを優先した環境で教育を受けたからです。

実際に、授業中に手を上げて質問をしたり、自己発信をすることネガティブな行為であると認識される場合があります(祐宗, 河本, 浜崎, 川崎, 西川, & 高野, 1996)。

自分の意見を持つこと、それを他者に発信することに関して、留学(アメリカ居住)経験をした身から言うと、日本人はこれらの自己発信行為がかなり苦手であると感じます。

現に教育現場で学生に対して建設的な意見を述べた時にも、他者から自分の意見に対して指摘を受けた学生は、その方法がどうであれ、「この指摘された意見を発信した自分の価値が低い」と勘違いをします。これは本当によくあるケースです。

受け取り手として、「自分の意見について意見を受けた」ことを、あたかも「自分を否定された」ように受け取る癖がついてしまっているのです。

さらに言うと、発信側としても、人格否定をすることなく「他人への意見に関して意見を述べる技術」を持ち合わせていないとも考えられます。ではどうすれば良いのでしょうか。


日本人としてクリティカルシンキングスキルを行うために

結論から言うと、「意見への指摘と人格否定を区別し、人それぞれ意見は異なるものであると皆が認識した上で、自分の意見を安心して言える環境づくりを自らが行う」ことが、日本人として批判的思考を強化、実行する上で大切です。

これは小学校教育から早急に対処すべき課題であると個人的には思います。大学生や社会人になってからでは、この染みついた習慣から抜け出すのは時間がかかります。だから個人から行動していくしかありません。

具体的には、

・良い悪いではなく、さまざまな視点から他人の意見を客観的に評価する

・明らかに論理的に間違った意見でも、相手がそこへ至ったアプローチを一緒に考えようとする

・他人からの情報を鵜呑みにせず、「隠れた前提」を探し出し、物事の本質を捉えようとする

以上のことを私は常に心がけています。

自分の意見を発信すること、そして多様な意見を受け取る態度の育成が今後の日本を背負って世界へ羽ばたいていく国際人育成の鍵であると思います。

今いろいろなメディアでも「論破」と言う言葉を聞きます。個人的にこの言葉は好ましくないと思っています。理論詰で相手をねじ伏せることが良いことであるとする風潮は、「負けた」人を作り出してしまいます。元々異なる意見があって当たり前なのに、負ける、優劣がつくという状況が好ましくないです。

染み付いた癖はすぐには変えられません。まずは一人一人が率先して他人の意見を受け入れ、論じて負かすのではなく一緒に考えてみませんか。




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