2024年を振り返って-ウェルビーイング編-母との別れと本来の自分をとりもどした感覚と
こんにちは。養生デザインの青木優加です。
2024年を振り返り、今年のアーカイブを残すべくnoteを書こうと思ったらなんと1月で時が止まっていました。猛省。
ただそれくらい今年1年、とても充実して目まぐるしい日々を過ごせたこと。
私の一生の中でも忘れられない1年になったこと。
時間は空きましたが、また来年読み返せるように大事な記録として残しておこうと思います。
2024年はじめに立てた目標のゆくえ
振り返るにあたり今年の最初に立てた目標を読み直してみました。
結果は・・まずまず目標達成といったところ。
特にウェルビーイングについての自分的理解が深まり、まさにウェルビーイングな1年になりました。
お別れと自立と
1年の中で大きかったのは、2年と3ヶ月看病していた母が9月に逝去したこと。
長男が家を離れ大学の近くに住み始め、今年20歳を迎えたこと。
次男も18歳を迎え、社会的には成人したこと。
私と共にあった見えないつながりのようなものが、ふっと外れていく、そんな感覚をなん度も味わった1年でありました。
それぞれに寂しさはありましたが、それでも私自身が「責任」という言葉で私自身を重く縛っていた大きな塊のようなものが、すこーしずつほぐれていく感覚を味わい(今もまだその過程の中にいますが)
ほぐれてくると同時に、やっと私自身が縛っていたものの重さや大きさに気づくことができているような感覚でいます。
星読み的転機と失敗についても考える
星読みもしているので、その時その時の流れや自分にかかっている取り組むべき課題、転機となる事象や時期は読むことができます。
が、実際にそれが転機だったなとか、あれが課題の大元だったなと気づけるのはやはりことが起きてから少し後。
振り返ることで答え合わせをする感覚です。
むしろ渦中にいる時は、「あ、これが今課題だな」とそこに囚われてしまうと大事なことを見失ったり、可能性を小さくしてしまうことが多いです。
転ばぬさきの杖として、気を付けるべきは気をつけますが。
予言ではないので、やっぱりその時の自分にとっての学びはなんであったかはその後に振り返ることや、そこを抜けた時に振り返って気づくことの方が大切だと考えています。
何が起こるのか恐れていては動けないし、恐れつつも頑張ってトライした結果、期待や辛さ以上のものに出会えるのが人生の醍醐味。
失敗は避けるものではなく、ちゃんと動いてトライするから後々失敗だったとか、こうすればよかったに気づけるのです。
もっというと失敗は失敗ではない。
むしろ恐れてチャレンジしないことの方が失敗に値するのではないかな・・と思います。
2024年の大きな気づき-私にとってのウェルビーイングとは
さてさて、そんなわけで2024年はウェルビーイングについてとても深めた1年でした。
ウェルビーイングについてお話しする機会が増えるにつれ、何度も自分についてのウェルビーイングとは?を考えました。
1年経って思うことは、ウェルビーイングを考える時に大切なのは自己理解であることです。
そんな自己理解、つまり私とは?をめちゃくちゃ考えた1年でありました。
「めんどくさい」と思うことと「丁寧な暮らし」への自分なりの答え-本来の自分をとりもどす
実は、私の毎年掲げている目標に「丁寧に暮らす」というのがあります。
このふわっとしすぎた目標を、毎年叶えられずにいて
常にこれを叶えられない自分と、つい思ってしまう「めんどくさい」とはなんだろう・・を日々考え続けてきました。
そして自己理解が深まってきたからか、ようやく今年その答えの一端にたどりつけました。
私的には世紀の発見!
それは自分にある余白に気づけていなかったことでした。
やりたくない→それをするのに時間やエネルギーを使うことがもったい無い→めんどくさい
という構図に逃げてしまってた自分に気づきました。
仕事や家事、やらなくてはいけないことに追われ、それをやることを優先しなくてはいけない。
だから、今それ以外にかける時間とエネルギーがない、使ったらダメなもの、くらいに思っていた自分に気がついたのでした。
でも実際、それ以外の時間、例えばSNSを見ていたり、なんとなく時間がすぎるのを待つ時間はあることもたくさんで。
余白はちゃんとあることに気づけてからは、少しずつ「もったいない」と
「めんどくさい」の感覚が変わりつつあります。
同時に自分の癖「もったいなくて使えない」も少しずつ克服できてきました
今あるものを使う怖さ、それは時間にもモノにも当てはまると気づいた時
一つ縛られていた鎖が軽くなったような気持ちがしました。
母に教えられてきた感覚、もったい無い、自分のことは常に後回しにする美学。
この呪縛(あえて呪縛と記しますが)がすごく大きく重いものだったんだなぁと、母の逝去後に改めて感じました。
薄々は感じていた感覚、でも手放すことも怖かった気持ち。
私のアイデンティティとして少なからずあったものを手放すことは、とても勇気がいることではあります。
それでも、この知らずに自分が作り出していたあるべき自分という他者の価値観による理想。
それが本来の自分の望みではなかったことでずっと感じていた違和感。
ここに気づけたことが、なかなかに大きな価値のある1年になったなと感じています。
2025年に向けて-自分の中の常識を疑う
そんなわけで、来年はもう少し自分で当たり前だと思っていた自分の常識を疑ってみようと思っています。
そして丁寧ね暮らし、も。
いまの私が望む丁寧な暮らし、は、全体で完璧ではなくても、一つひとつのことをじっくりゆっくりと楽しむこと。
お茶を淹れる、本を読む、家事をする
全ては完璧にはこなせないし、ある時間も有限です。
だからこそ、そこにある余白にちゃんと気持ちと目をむけ、余白は余白として楽しむ。
そんなことを目標にしたいなと思っています。
とはいえ2024年も、まだあと2週間近く残っていて。
冬至に向けて今年の一番大きな目標がひとつ叶います。
ワクワクと責任を持って、2024年を味わい尽くして来年に向かいたいなと思います。
少し早いですが、今年1年お世話になった皆様、ご縁をいただいた皆様
本当にありがとうございました。
いただいたご恩をまた来年、循環できるような自分でいられますように。
ますます精進してまいります。