カール・ブッセ「山のあなた」のドイツ語原詩を求めてさすらった話
上田敏の訳詩「山のあなた」は、ドイツの詩人カール・ブッセ(Carl Busse)の"Über den Bergen"を訳したものだ。この詩のドイツ語原文がどうなっているのか、はっきりしない。そこで、いろいろ調べてみた。
三浦仁(『近代詩鑑賞辞典』1969、41頁)
Über den Bergen
Über den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen, weit, weit druben
Sagen die Leute, wohnt das Grück……
3行目のschwarme, 5行目のdruben, 最終行のGrückは誤植だろう。それぞれ、Schwarme, drüben, Glückが正しい。
詩の終わりは「……」となっている。これは日本語の表記では普通だが、ドイツ語の文では「...」とするのが通例だ。
鍛治哲郎(「『読み手』のあなたへ――読者反応論」2003、48-49頁)
Ueber den Bergen
Ueber den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Ueber den Bergen, weit , weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück...
1行目と5行目にUeberがあるが、これはÜberのことだ。ドイツ語のÜはUeで代用することができる。原文では実際にこうなっているのだろう、と推測。
鍛冶は、ヤコボフスキー(Jacobowski★1)編集の次の本を底本として挙げている。
"Neue Lieder der besten neueren Dichter fürs Volk", zusammengestellt von Dr. Ludwig Jacobowski, Berlin 1899.
亀井俊介(『名詩名訳ものがたり』2005、76頁)
Ueber den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Ueber den Bergen, weit , weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück....
題名は書かれていない。
鍛冶のものとほぼ同じだが、最終行末尾が「....」となっており、点が4つある。「...」の誤植かもしれない。
ブッセの"Gedichte(詩集)"の第4版, 1899 (初版1892)、197頁
"Über den Bergen"は、Busseの"Gedichte(詩集)"という題の詩集に収められている。これはネットで見ることができる。
WikisourceのCarl Busseの項目を見ると、
Busse, Carl: "Gedichte", 4. erw. Auflage, Stuttgart: Liebeskind, 1899
へのリンクが張られている。197頁に、"Ueber den Bergen"が掲載されている。
Ueber den Bergen.
Ueber den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück,
Ach und ich ging im Schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen, weit , weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück...
目次では"Über den Bergen"となっているのに、実際の詩の題ではUeberが使われている。通常、UeはÜが表記できないときに代用するものだ。なぜここでUeberとなっているのかはわからない。冒頭のUeberに合わせたものか。
また、題名にピリオドが打たれているのは変な気がするが、この詩集に収められている他の詩でもすべてそうなっているので、そういう編集方針だったのだろう。
注目すべきは、2行目の末尾が、ピリオドではなくコンマになっているところである。
また、3行目のAchの後にコンマがない。
5行目はÜberとなっている。冒頭の1文字(ここではU)が飾り文字になっているため、そこだけUeberとしたのだろうか。
末尾は「...」となっている。
ブッセ編の"Neuere Deutsche Lyrik(近代ドイツ抒情詩)", 1895, 462頁
同じくWikisourceのCarl Busseの項には、Busseが編纂した、
"Neuere Deutsche Lyrik", ausgewählt und herausgegeben von Carl Busse, Halle a. d. Saale : Otto Hendel 1895, S. 462.
へのリンクも張られている。
Busseはこの中に自身の詩を5篇含めている。そのうちの一つは、"Strophen(連詩)"という題で、3つの詩をまとめたものである。第1番に置かれているのが、"Über den Bergen"だ。ただし、第1番には題はなく、「1」という番号のみだ。
Ueber den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück,
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen, weit, weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück...
これまでと異なるところは、3行目のAchの後にコンマがある点だ。"Ach(ああ)"の後に、一呼吸あるので、コンマがある方が自然な気がする。
また、1行目がUeberになっているのに、5行目がÜberになっているのは、"Gedichte"と同じだ。1行目のUeberのUは飾り文字となっている。
2行目末尾のコンマについては、他の版を見たわけではないので、断定はできないが、"Gedichte"の第4版も、Busse自身の編集になる"Neuere Deutsche Lyrik"もコンマになっていることを考えると、これがBusseの最終形と考えていいのではないかと思う。
上田敏が参照した原本
『名詩名訳ものがたり』の亀井は、上田敏の原詩について、島田謹二の説を紹介している(75頁)。
島田謹二の『日本における外国文学 上』を見てみよう。そこで島田は、上田敏が翻訳に当たって底本としたのは、森鴎外から借りたルートヴィッヒ・ヤコボフスキー(Ludwig Jacobowski)編の次の詞華集だと推測している(321-322頁)。
"Neue Lieder der besten neueren Dichter für’s Volk", zusammengestellt von Ludwig Jacobowski, Berlin: Liemann, 1899.
島田は、この本が東京大学の鴎外文庫にあったこと、つまり、鴎外の蔵書であったこと、『海潮音』に訳された「わすれなぐさ」以下のドイツ小曲6章の原詩がすべて収められていること、上田がドイツ文学に疎かったこと、上田と鴎外の親交が深まった時期であったことなどから、鴎外が上田にそれを貸し与えたことは「十分に想像される事柄ではないか」(322頁)としている。
また、安田保雄も『上田敏研究――その生涯と業績――』において、「上田敏がこの詞華集に拠ったことはおそらく疑いのない事実と言ってよいと思う」(77頁)と、島田の説を支持している。
鍛治は注でヤコボフスキーの本を挙げているし、亀井は島田の説を前提としている。
上田敏が上記のヤコボフスキーの本から「山のあなた」を訳出したことは間違いないと言えよう。
ヤコボフスキーの原書は残念ながら、ネットでは見られないようだ。日本の大学のどこかにないかと思って調べてみると、東京大学の鷗外文庫にある。つまり、鷗外が所有し、上田敏に貸した本そのものだ。
郵送によりこの本を借りようと思ったができなかった。1900年以前の資料は郵送による貸出には応じていないとのこと。Jacobowskiの本は1899年(!)出版なのだ。ただ、複写は可能とのことで、「山のあなた」だけコピーしてもらった。
以下が、上田敏が訳した「山のあなた」の原詩だ(S. 15-16)。鍛冶が引いているものとほぼ同じだ。
Ueber den Bergen.
von Carl Busse.
Ueber den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Ueber den Bergen, weit , weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück...
やっと、原詩にたどり着いた。特徴を見てみよう。
題名の後にピリオドがある。
作者名の後にもピリオドがある。
作者名の後に空行はなく、すぐに詩が始まる。
冒頭のUeberの前に2文字分の字下げがある。他の詩でもそうなっているので、そういう編集のようだ。
1行目のUeberのUは飾り文字ではない。
2行目の終わりはピリオドとなっている。
3行目のAchの後にコンマがある。
5行目の冒頭は1行目と同じく、Ueberとなっている。
6行目の終わりは「...」となっている。
なお、目次は、"Ueber den Bergen"となっている。ピリオドはない。
1行目と5行目がÜberではなく、Ueberになっているのはなぜなのかはわからない。Busse自身の編集では1行目がUeberになっているので、5行目もそれに合わせたのかもしれない。
Busse自身の手になる"Gedichte"や"Neuere Deutsche Lyrik"と大きく異なるところは、2行目の末尾がコンマではなく、ピリオドになっているところだ。ヤコボフスキーが意図的にしたものなのか、あるいはカール・ブッセの"Gedichte"のいずれかの版でそうなっているのか、それとも単なる誤植なのかはわからない。
詩の末尾が「...」で終わっているのは、"Gedichte"でも、"Neuere Deutsche Lyrik"でも、Jacobowskiでも同じだ。ということは、ここを「。」と句点にしたのは上田敏の考えということだ。その方が詩としていいと思ったのに違いない。
まとめ
Busseの作品としては、"Gedichte"に収められたものがテクストとなる。ただ、上田敏の訳詩の原詩としては、Jacobowskiのものがテクストと言えよう。
題名のピリオド、飾り文字や冒頭の字下げ、編集上の慣習など、いろいろな要素があって、上田敏の訳詞の原詩として紹介する場合、どう表記すべきか悩ましい。しかし、筆者としては、今後引用するに当たっては、次のものを原詩としたい。
Über den Bergen
Carl Busse
Über den Bergen, weit zu wandern,
Sagen die Leute, wohnt das Glück.
Ach, und ich ging im Schwarme der andern,
Kam mit verweinten Augen zurück.
Über den Bergen, weit , weit drüben,
Sagen die Leute, wohnt das Glück...
いくつかの点について筆者の意見を述べておく。
題名の後のピリオドについて――当時の習慣か。現代では不要だろう。
UeberとÜberの違いについて――UeはÜが表記できない場合の代用だ。Ueberにしたのが飾り文字のためというなら、Überを使うのが普通だ。
1行目の字下げについて――飾り文字を使わなかったかわりに字下げを行ったという編集上の理由なら、字下げの必要はない。
2行目末尾のピリオドについて――朗読してみても、また意味的にも、ピリオドの方がいいような気がする。
3行目のAchの後のコンマについて――Achは感動詞なので、その後にコンマがあるほうが表記上もしっくりくるし、また、少し間ができるのでいいと思う。ただ、この一文は、"Ach, und ich ging"と"im Schwarme der andern"の間に「句切れ(Zäsur)」があるので(★2)、コンマの有無にかかわらず、"Ach, und ich ging"は一気に読んだ方がいいのかもしれない。
注
★1:安田は「ヤコボウスキイ」、島田と亀井は「ヤコボースキー」、鍛冶は「ヤコボウスキー」と表記しているが、「ヤコボフスキー」の方がいいと思う。
★2:山口四郎、290頁。
参考文献
鍛治哲郎「『読み手』のあなたへ――読者反応論」(丹治愛編『批評理論』講談社、2005(初版2003)、31-53頁)
亀井俊介「カール・ブッセ『山のあなた』」(亀井俊介・沓掛良彦『名詩名訳ものがたり』岩波書店、2005、74-77頁
島田謹二『日本における外国文学 上巻』朝日新聞社、1975
三浦仁「上田敏」(吉田精一・分銅惇作編『近代詩鑑賞辞典』東京堂出版、1961年、40-42頁)
安田保雄『上田敏研究――その生涯と業績――』有精堂、1969
山口四郎『新版ドイツ詩抄――珠玉の名詩150撰』冨山房インターナショナル、2008
吉田精一『鑑賞現代詩1 明治』筑摩書房、1972、初版は1969
Busse, Carl: "Gedichte", 4. erw. Auflage, Stuttgart: Liebeskind, 1899
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