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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ (12)

12.

私はずっと「狭き門」は山内訳で親しんできたし、原文で読むようになってから以降は、この翻訳が、ジッドの文章の雰囲気を最も良く伝えていると 考えてきたが、それでもなお、幾つかの翻訳を比較するのは、原文を読み取る上で、自分の思い込みや自明と考えている解釈を相対化する上で 示唆的である。ここでは気付くまま、2点程挙げてみるに留めるが、この2点はそれなりに解釈に対して本質的な意味を持ちかねない(絶対に持つ とまで言うことはできないにせよ)部分と私は考えている。

(1). VII.の冒頭のアリサの父のジェロームへの言葉。何でもないフランス語– Alissa t’attend dans le jardin,が実は日本語の翻訳の場合には、日本語の 特性ゆえに問題を孕みうるのである。つまり「アリサは」とするか、「アリサが」とするかの選択がありえて、実際、翻訳はこの2つにわかれている。

  • 「が」:白井訳、川口訳、中村訳、菅野訳、若林訳

  • 「は」:山内訳、淀野訳、村上訳、須藤・松崎訳、小佐井訳、新庄訳

どちらでもいいではないか、という見方もあるだろうが、どちらかが誤解というわけではないにせよ、両者が同じでないのは当然だろう。「が」であれば 「自分の娘が庭で待っている」という単なる事実の情報提示に過ぎないという見方もできるが、見方によっては、この情報をいきなりジェロームに提示したのであれば、この事実こそがその場面では喫緊の話題であるとアリサの父が認識していたことを物語るとも言える。あるいは更に想像を拡げれば、アリサが父に対して、ジェロームにそう言付けたかも知れない。つまりこれは事実上アリサの伝言なのだとも考えられる。一方「は」であれば、 今度はアリサの父は、ジェロームがアリサに会いに来たのだという前提の下で、彼女が「どこで待っているのか」を情報として提示したという事が できるだろう。特に「が」の場合には色々なケースが考えられる以上、どちらが適切かを断定することはできないだろうが、前の章の終りや、この後の 話の流れからすれば、「は」の方が自然であり、「が」を用いた発話が提示されると、視点が一旦語り手のジェロームから離れて、いわば一人称的ではなく、 三人称的な視点での記述になっているというようにも考えられるだろう。しかしより興味深いのは、このどちらを採用するかでアリサの父のアリサに 対する態度、ジェロームに対する態度に微妙な差異が生じるということだ。仮に訳者が両方ありうることを意識し、その両者を並べて上で一方を選択したにせよ、そうではなくて、恰も当然の如くに自分の選択した方に飛びついたにせよ、読み手にとっては随分と違った印象を与えるのは避け難い。

(2). VIII.におけるジェロームに宛てられたアリサの言葉、À présent j’ai tourné la page.の訳文は、この部分だけ取り出して仏文和訳の問題として出題すれば、 何の迷いもなく、中村訳のように「今はわたくしはページをめくってしまったんですもの。」といったように訳すであろう。だが、この部分の原文を読んだ私は 驚いたものである。なぜなら、私が親しんできた山内訳では「もうページはめくられてしまったんですわ。」と態を交換し、非人称的な文章になっていたからである。 当然、後者の場合には、ページを捲ったのが誰かはわからないのだが、こういう言い方(いわゆる被害の受身として読むことが可能だ)をアリサがする以上、 アリサが自分で意識的にしたというように考えるのは困難で、アリサはそうした状況の変化に対して、少なくとも受身の受容を行ったように読み取れてしまうのは避け難い。 そこで他の訳もあたってみると以下のようになっていた。

能動

  • 中村訳:「今はわたくしはページをめくってしまったんですもの。」

  • 若林訳:「いまわたしはね、ページをめくってしまったの」

  • 白井訳:「今はもう、わたしは頁をめくってしまったんですもの」

  • 小佐井訳:「今はもう、わたしはページをめくってしまったのですもの」

  • 菅野訳:「わたくしはページをめくってしまったんですもの」

  • 須藤・松崎訳:「今はもう、わたしはページをくってしまったのですわ」

  • 村上訳:「今はもう、ページをめくってしまったんですもの」

受動

  • 山内訳:「もうページはめくられてしまったんですわ。」

  • 新庄訳:「もうページはめくられてしまったのよ」

  • 川口訳:「もう頁はめくられてしまったのですもの。」

  • 淀野訳:「もうページはめくられてしまいました。」

勿論、これもここだけで一見すると原文に忠実ではない受身による非人称文を誤訳とすることはできない。というのも、あえてそうしたのは解釈あってのことに相違なく、であればその解釈の是非の方が問われるべきだからである。村上訳のように能動で訳しつつ、エージェントを省略してしまっている場合もある。 もし補えばアリサが補完されるのは確実だから、その点では解釈が変わるわけではないが、もしかしたらページをめくったのは自分を含む或る種の状況であることを言外に篭めているのかも知れないし、もしかしたらアリサがページをめくったこと(この意識がアリサにあったのはどのみち確実なことだ)にはジェロームも 関与している、つまり共犯なのだ、ということを言いたいのかも知れない。受身の訳についても同様で、直訳すれば、それがアリサの行為であり選択であったとしても、 アリサがそれを自己に反してしていることは後のアリサの日記により明らかになるわけだし、前後のアリサの言葉からも既に十分に読み取れるように、 理由はどうであれ(とはいえ私はジェロームが鈍かったからという解釈は絶対に採らないが)アリサが望まずしてページを繰らざるをえなかったのだというアリサの 心情を慮れば、受動にするのも全く妥当性を欠いているとは言えないだろう。だがいずれにしても翻訳で読めば、それに読み手の解釈は左右されるのは 避け難い。一方で、一見中村訳に近いように見える若林訳だが、その違いは実は他の訳と中村訳の違いに比べて寧ろ大きいといっても良いだろう。 À présent を冒頭に立てた文章での複合過去形の使用を、他の訳者は(受動で訳している訳者も含め)、完了のニュアンスで捉えている。それは「もう」 という、一見すると原文のどこにもない語句を補っていることからもわかる。そればかりか「今」という語が含まれない訳すらあり、とりわけ受動で訳している 場合には、このページが既にめくられてしまったという完了のニュアンスに(ページをめくったのは誰かという点を差し置いて)フォーカスを当てることに狙いがあることがわかる。「もう」を補わずに訳しているのは、そもそも全くÀ présent を訳していない菅野訳を除けば、中村訳と若林訳のみになるが、 実は中村訳では「今は」という言い方になっていて、それが動詞の「しまったんですもの」の完了のかたちと相俟って、既に自分がページをめくったことにより、 今はページがめくられた状態になること、自分のページをめくる行為が、既に完了済みであることを明確に示している。それに対して若林訳は、 まるでページをめくる行為が「いま」の広がりの中で行われ、それがたった今済んだかのようなニュアンスになっている。現象学的な意味合いでの広がりのある現在の中の第一次過去把持において「ページをめくる」行為が捉えられている。その他の訳は、現在の広がりの中ではページがめくられた状態にあるという点のみがあり、その因果的過去として、いわば第二次過去把持としての想起の相に「ページをめくる」という行為が位置づけられているような受け止め方も可能である。要するに、若林訳のみは、この第8章での対話の場面における一連のやりとりの中でのアリサの行為が「ページをめくる」ことに他ならないとアリサが考えているというようにしか読めない。この解釈の成否は当然、すぐに後続するアリサの日記との照合によって為されるであろう。

明らかに言えることはこうだ。この第8章での出来事が「ページをめくること」ではないのは明確だ。彼女の日記は「犠牲」を成し遂げたと彼女が 認識したのは、ずっと前のことであるを告げているし、「仕事の完成」まであと2ヶ月という記述も、第8章の件に対応した部分ではなく、 遥かに時系列的に手前に現れている。そしてもし、彼女がそれらの成就を、完成を否定するのだとしたら、それは第8章のこの会話の後の 時点でもそうなのだ。寧ろこの第8章の会話に対応する部分は、この行為が「ページをめくる前」の残影であることをこそ明らかにしているのではないか。 勿論、紫水晶の十字架をジェロームに渡すことが、長大な「ページをめくる」行為の最後の一ピースであったのではという主張は不可能ではない。 けれども、「ページをめくる」という行為が、一度の会話で、一つの現在の裡で済んでしまうような性質のものではない点に留意すべきではないのか。 私見では「私は年をとってしまった」と第7章でアリサが語ったとき、アリサは既に相転移の向こう側にいて、従って「ページはめくられてしまった」 状態にあったと考える。

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