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日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』を読む

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『山崎与次兵衛アーカイブ:三輪眞弘』別冊。ジッド『狭き門』の読解。原題「日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ」, 2013.9.15 W…
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2024年11月の記事一覧

日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ (26(了)・文献リスト)

26. もう一度冒頭の問いに戻ろう。文体を放棄し、自己を放棄したアリサが古典的と形容される精緻な文体によって描き出されるのは、矛盾ではないのか? アリサの或る種の自己破壊衝動には注目せずにはいられない。それは書き手のジッド自身の衝動とは相反するものである筈だから。例えば以下のアリサの日記の一部に 記された衝動が、押しとどめられることなく、そのまま実行されたなら、そもそも「アリサの日記」はなかったことになる。だが、「アリサの日記」が無ければジェロームは この文章を書いただろ

日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(25)

25. だがそれでもなお、アリサに欠けていたものが何であったか、というのはジェロームとともにアリサを記憶するものにとってのみ相応しい問いだろう。 ベンヤミンの短いが重要な「狭き門」についての文章で、ベンヤミンはジッドの企てはそもそも最初の構想からして不可能事であったと 語っている。ところで、ベンヤミンは、紫水晶の十字架について、全くの勘違いをしている。それはベンヤミンの主張にとって実は致命的で、 「狭き門」の破綻を指摘するベンヤミンの主張が、今度はその一点から破綻することは

日記・ポリフォニー・門:ジッド『狭き門』からモノローグ・オペラ「新しい時代」へ(24)

24. 最後に部屋に入ってくるランプの灯(Une servante entra, qui apportait la lampe.)は、何を浮かび上がらせたであろうか。 これは一体何の象徴なのか。いずれにしても、この結末は(ジッド自身の後付の理屈も含めて)この物語に関する皮相な解釈を 物語自体の持つ力、バルトが写真論で述べたあのpunctumに極めて類似した力によって粉砕してしまうように見える。 ここでは物語を語る衝動はどこに由来しているのか?なぜ語らずにはいられないのか。