これまでの人生をじっくり振り返って記録したいと思う(終活要素的にも)
若いころ、旅で出会った人達に、(特に年上の親世代の方々)
死ぬまでに「回顧録」「自伝」を書きたい、と話す人が何人かいた。
当時は、
「ふーん、長い人生を振り返って書くって、大変そうだな」とか、
「自分もいつかそんなふうに自分のことを書きたいとか思うのだろうか?」
などと思ったものだが、なるほど、歳を重ねていくと、
「自分の人生をじっくり振り返り、記録」
したくなる気持ち、わかる。
これまでの人生をじっくり振り返って記録したい、と思うのだ。
人生路頭に迷った時も、
「記録」は何かの足掛かりになることは大いにあると思う、そうであった。
飛び飛びで書いている日記もそう。
私は1996年位からの手帳を保管しているが(途中ない年もあり)
時々この手帳たちを読み返すと、
たいへん大きなヒント、励まし、になることが多い。
どんな本より面白い、唯一無二の独創性あふれる親しみ深い(自分だからね)ものだ。
読み返しながら、
単純に過去の自分にツッコミを入れながら恥ずかしくなったり、
(たまらず赤ペンでツッコミを書きこんでしまったり)
笑ったり、
悲しみや怒りなんかのチクッとした感覚を思い出したり、
「あぁ人生を楽しみ、味わってきたなぁ」と思う。
しかし、
今、
私はその「人生って楽しい」という感覚から遠ざかって久しく、、
ついぞ麻痺してきていると思えてならない。。
まさに今、この人生振り返り&記録作業が助けになるのではないだろうか?
(というか、実際書き始めてみたが、この作業は結構しんどいところもある。。だからこそ、避けてはならぬのだろうか)
時系列でまとめることが苦手な私は、
ついインパクト順に思い出してしまう
20年位、私の人生の軸だった(今後も諦めないぞ)
「旅」についてどんどん振り返り、思い出し、「旅」だけの記録もしたいなぁ。
現代は、紙に記録するよりも、
紛失せず、資源の観点でもデジタル記録が多くなっているが、
手書き、というのは、あとから振り返っても、
感情や思考が鮮やかによみがえることがある。
書きながら、今日の私の字はなんだかスラスラいけるぞ、とか、
なんだかうまく書けないとか、今日の私の書く文字、好き、とか、
その時の調子なんかが現れるバロメーター的なこともあり。
昔読んだ本のワークで、モーニングノートといって、
朝起き抜けに思いついたことを思考でまとめようとせずに、
ダーーーーっと好きなだけ手書きで書く、
というのがあって、しばらく実行した。
書くことがない、と思った時は、
そのまま「書くことがない」と連続して書くのだ。
何を書いてもいい、といっても躊躇している自分に気づいたり、
日によって書ける量が全ー然違ったり、
自動筆記か?というくらい書くのが止まらなくなったり、
確かに、ノートの効能というものは感じられた。
そういうわけで我が回顧録も、
ぜひともアナログ形式で紙に記したいところだが、
自分wikiともなると、他人にそれを見られるもの困るし、
(私が旅立った後を考えた終活的にも)
膨大な長さとなることからアナログ100%は難しい。
メールやネット、日常利用するソフトはいくつもある。
そもそも現代は、アナログメインで行きたいんだ!と私が思っても、
スマホを持ってる前提にされておる昨今、
行政からのなんやらとか、問合せやらがオンライン化されまくっていて、
アナログ主義!なぞは孤立して社会生活が立ち行かなくなることもある。。
過剰なAI、デジタル発展に大きな疑問と不安を持つ私は、
ChatGPTも使ったことはないし使う予定もないし、
LINEもやめた。
まぁささやかな抵抗したって、
既にいろいろ取り込まれているんだろうけど、
自分が納得しない、良く思わない企業や組織や製品、商品は、
可能な限り選ばないって尊厳のようなものだし、草の根的に望む社会を応援するためのようなもの、たぶん。
買いものは投票、というのもそうよね。
買いもののみならず、何かを選ぶとき、選ばないことは、
社会に世界に、なにが存在してほしいか、それが選択基準になるでしょう。
それにしても、回顧録は完結することってないかも。
いつ、このからだから旅立つのかわからないってことのほうが確立は高そうだし。