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VOL.13寄稿者&作品紹介11 美馬亜貴子さん

5月1日、ウェブ上のカルチャーメディア「CINRA」に〈追悼・坂本龍一:わたしたちが聴いた音楽とその時代〉連載vol.4として、美馬亜貴子さんの「YMO散開直後の無垢な音の戯れ『音楽図鑑』」が掲載されました。坂本龍一と出会ったころのご自身を“地方都市に住まう一介の小娘”と称したこの一篇では、美馬さんにとって『音楽図鑑』というアルバムがいかに大切な1枚だったのかが率直に語られています。じつは『音楽図鑑』、私(発行人)の短くもない人生のごく一時期(独り暮らし時代/約1年)に愛聴していたので、このアルバムが醸す無邪気で人なつっこい感触、わかるなぁと思いながら拝読しました。マスコミのニュースなどでは(仕方ないとはいえ)「世界のサカモト」的な伝えかたが多かったですが、「私にとって坂本龍一はその偉大さによらず、存外身近な存在だった」という文末にある一節、おおいに共感してしまったのです。

そんな美馬さんのウィッチンケア第13号への寄稿作は「スウィート・ビター・キャンディ」。本作にもマスコミ報道と「個々の思い」の齟齬、のようなことが織り込まれていました。“推し”のスキャンダルを報道で知ってしまった主人公・「私」の揺れ動く心理が、複眼的に描かれています。いわゆる、文春砲.。いま流行のアレに尋ねてみましたよ。《一般的には予告なしに突然スキャンダルを暴露する報道のことを指し、その内容が報じられることで、当事者や関係者にとっては困惑や社会的な非難を浴びる場合もあります》...まあ、だいたい合ってる。しっかし、いったいいつから「文春砲+Yahoo!ニュースのコメント」が社会の“正義”になってしまったのか。“正義”を笠に着ればなんでもネットに流していいのか(それも商売として)。2004年に廃刊になった某雑誌、あれは「みんな読んでたけど読み終えたら『読んでなかったこと』にする」みたいな、暗黙の了解があったうえで存在していたような記憶があるんですけれども。

作品の終盤、「カリスマ2・5次元俳優の美夜雅彦、冷酷非道な裏の顔!」という報道に接してしまった「私」は、自分を気遣ってくれるお母さんに感謝しつつ「あーあ、最低だよ」とごちります。この「最低」に至るまでの、「最低」という言葉しか選び取れなかった、「私」の思考の変遷、ぜひ多くのかたに読んでもらいたいです。《自分で自分のキャリアを台無しにしたマサヒコを「バカ」と罵りたい。そしてその一方で、これは絶対に言っちゃいけないやつなのだが、相手の女の人にも「勘弁してよ。あなたの告発のせいでとんでもないことになっちゃったよ」と言いたい気持ちも、ある。》...いや、これはほんとうにデリケートな問題で、ちょっと、なかなか適切な言葉が思い浮かびません(...逃亡)。

 中学の時、美術の時間にイタリアのカラバッジオという画家について習ったことがあった。先生がモニターに映った彼の絵を指して「この絵を描いた画家はなんと人を殺したことがあるんですが、イタリアのお札の肖像にもなっています」と言った時、教室がどよめいた。お札になるのは歴史上の偉人と決まっているが、人を殺した人が国を代表していいのだろうか。その事実を凌駕するほどの才能があれば、悪いことをしても許されてしまうのだろうか。優れた芸術には人の心を救う力があるというけれど、たとえ殺人者が描いた絵でも、それを見て救われる人が大勢いたら、彼は善い行ないをしたことになる。殺した人よりも助けた人が多ければ、罪は消えなくても、赦されはするのだろう。

 だから傷つけられた女性には本当に申し訳ないし、カラバッジオとはスケールが違いすぎるかもだけど、マサヒコの歌を聴くことで楽しい気分になったり、元気をもらったりする人は、悲しい思いをする人の何十倍も何百倍もいて、それは世の中のためになっている。

〜ウィッチンケア第13号掲載「スウィート・ビター・キャンディ」より引用〜

美馬亜貴子さん小誌バックナンバー掲載作品:〈ワカコさんの窓〉(第5号)/〈二十一世紀鋼鉄の女〉(第6号&《note版ウィッチンケア文庫》)/〈MとNの間〉(第7号)/〈ダーティー・ハリー・シンドローム〉(第8号)/〈パッション・マニアックス〉(第9号)/〈表顕のプリズナー〉(第10号)/〈コレクティヴ・メランコリー〉((第11号)/〈きょうのおしごと〉(第12号)

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