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「GHQ 文藝春秋 菊池寛」V氏の阿頼耶識への道2 ── ヴァイクンタ最深部

この物語はフィクションです
登場する人物・団体・名称等は架空であり
実在のものとは関係がありません

阿頼耶識あらやしきへの道 ── ヴァイクンタ最深部

── ここは国際宇宙ステーション(ISS)ヴァイクンタ
阿頼耶識メインコンピュータへの道 ── ヴァイクンタ最深部


── V氏は一人、ヴァイクンタ最深部に向かっている。

阿頼耶識メインコンピュータへの道なりには、時折光を放つ末那識まなしき分散型コンピュータが配置されている。

── 末那識分散型コンピュータから放たれる、日本の歴史の映像が走馬灯のようにV氏の顔をかすめては過ぎ去って行く。

V氏:GHQの呪縛がここにもあったようだな。でもそれは解けつつある。

末那識分散型コンピュータ、GHQ 文藝春秋 菊池寛との関係を 出典込みで教えてくれ。

末那識分散型コンピュータ:

以下では、GHQ(連合国軍総司令部)と文藝春秋、および文藝春秋の創業者・菊池寛の関係について、主に戦後占領期(1945~1952年)を中心に概説し、あわせて参考になり得る文献・史料をいくつか挙げます。なお、当時は占領政策の一環としてGHQが多面的に言論・出版を管理・検閲していたため、文藝春秋もその対象となりました。


1. 背景:GHQによる占領政策と検閲

  • GHQ/SCAP(連合国軍総司令部)
    第二次世界大戦終結後の日本を占領・管理した連合国軍の司令部です。最高司令官マッカーサーのもと、民主化政策・非軍国主義化政策を進める一方、新聞・雑誌・ラジオなどあらゆる言論媒体を対象とした検閲(Civil Censorship Detachment, CCD)を実施しました。

    • 検閲では、戦時中の国家神道的・軍国主義的な表現、連合国・占領政策に批判的な内容などが削除・差し止めの対象となりました。

  • 文藝春秋社と『文藝春秋』
    文藝春秋社は菊池寛が1923年に創刊した総合雑誌『文藝春秋』を中心に、文芸分野のみならず社会や時事問題を幅広く扱い、大正末期から昭和にかけて急成長しました。戦前~戦中期には国策とのかかわりを持ちながらも、作家や評論家の発表媒体として大きな影響力をもっていました。


2. 菊池寛の立場と戦後初期の動向

  • 菊池寛(1888-1948)
    小説家・劇作家として活躍し、文藝春秋社を創業して社長を務めました。戦前は映画界(大映の前身の一つである「第一映画」の設立など)や文壇の組織運営にも携わり、文壇・マスコミ界の実力者として知られていました。
    戦時中は情報局が主導した翼賛的な出版統制や文化事業の中でも文芸界をまとめる立場にありましたが、戦争責任を問われて公職追放になるほどの処分は受けていません。一方で、占領下において文藝春秋社や同社の雑誌はGHQによる検閲の対象となります。

  • 戦後占領期の検閲への対応
    文藝春秋社は他の新聞社・出版社同様、GHQの検閲に従わざるを得ませんでした。とりわけ、1945年末から1946年頃にかけてGHQは日本語媒体を厳しくチェックし、

    • 軍国主義的・超国家主義的な記事

    • 連合国批判・占領軍批判を含む記事

    • GHQの対日政策に反対するような主張
      などを重点的に差し止めや削除の対象としました。
      菊池寛自身は占領当局からの直接的な召喚や尋問等は一部報じられているものの、明確な公職追放処分は受けず、文藝春秋社の運営には携わり続けました。ただし、菊池が1948年に没するまでの間は、雑誌の編集方針も含めGHQの方針を大きく逸脱しないよう注意が払われていたとされます。


3. GHQと文藝春秋社のかかわり

  1. 検閲体制下での誌面の変化

    • 終戦直後から数年間は、文藝春秋の誌面にもGHQの方針が色濃く反映され、戦時中の国策協力を肯定的に振り返るような記事や、占領政策を批判する記事は掲載できませんでした。

    • 文藝春秋社に限らず当時の総合雑誌は、GHQ検閲を避けるために内容を自己規制したり、事前にGHQ検閲を経る“白表紙”稿(検閲提出用ゲラ)の段階で修正を行ったりするケースが多くみられました。

  2. 菊池寛の影響力とGHQの認識

    • 菊池寛は戦前・戦中において政府・軍部に協力したという一面があったものの、一方で日本文壇の重鎮であり多くの作家を育てた文化人として知られていました。GHQも占領政策の一環として、日本の民主化のためには言論・文化人を一概に敵視するのではなく、場合によっては協力を得る方針をとっていました。

    • そのため、文藝春秋という大きなメディアを完全に閉鎖するよりも、検閲体制下でコントロールすることを重視したと考えられています。

  3. 菊池寛の晩年(1948年没)

    • 1948年に菊池寛は60歳で没しました。彼の晩年は、占領下でのメディア活動を巡る政治的・思想的な制約も大きかったとされますが、創作活動や文壇への影響力は依然として強く、文藝春秋社の経営にも一定の発言力を保っていました。

    • 菊池の死後、文藝春秋社はさらに体制を整え、占領終了(1952年)以降は保守言論を代表するメディアの一角として成長を続けました。


4. 主な参考文献・史料

  1. Dower, John W.『敗北を抱きしめて―第二次大戦後の日本人』(岩波書店, 2004)

    • 英語版原著 Embracing Defeat: Japan in the Wake of World War II (W.W. Norton, 1999)

    • GHQの占領政策や検閲の実態、戦後日本の言論・文化状況が包括的に論じられています。

  2. アジア歴史資料センター(JACAR)

    • https://www.jacar.archives.go.jp/

    • GHQ/SCAP関連資料や検閲に関する一次史料がデジタルアーカイブとして検索・閲覧可能です。文藝春秋など雑誌各社に対する検閲指令書・報告書なども含まれています。

  3. 文藝春秋社編『文藝春秋九十年史』(文藝春秋, 2013)

    • 文藝春秋社が編纂した社史で、創業から現代に至るまでの文藝春秋の歴史が概説されています。戦前・戦中・戦後の誌面の変化や検閲への対応等についても記述があります。

  4. 角川源義『菊池寛伝』(角川書店, 1966)

    • 菊池寛の伝記として早い時期に編纂されたもので、創作活動や文壇・出版界での動きが網羅的にまとめられています。GHQ占領期に関する詳細は限定的ですが、菊池寛の動向を知るうえでの基礎資料となります。

  5. 藤生京子『GHQ検閲と戦後日本文学』(有信堂, 1980)

    • GHQの検閲が日本の文芸誌や作家活動にどのように影響を与えたかを分析している研究書です。文藝春秋を含む主要雑誌に対する検閲例も掲載されています。


まとめ

  • GHQと文藝春秋、菊池寛との関係は、占領期にGHQが実施した検閲制度の枠内で、文藝春秋が刊行活動を継続し、その創業者である菊池寛が文化人・経営者として一定の影響力を維持し続けた、という点に集約されます。

  • 菊池寛自身は直接的な公職追放や厳罰には遭わず、文藝春秋社はGHQの検閲指針に従う形で雑誌を継続出版し、占領後は保守系の有力総合雑誌としての地位を確立していきました。

上記文献や史料を参照することで、戦後占領期におけるGHQの検閲体制と文藝春秋(菊池寛)の具体的なやり取りや誌面の変化などをより詳しく把握することができます。


”菊池寛自身は直接的な公職追放や厳罰には遭わず、文藝春秋社はGHQの検閲指針に従う形で雑誌を継続出版し、占領後は保守系の有力総合雑誌としての地位を確立していきました。”

V氏:── と、あるが。
それで、あの出版社と週刊誌は力を持ち続けていたのだな。

続く


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土屋洋一
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