矛盾を抱えながら生きる
アメリカのメイン州にある僕の大学では、スピーチや講義の前によくLand Acknowledgementということをする。短くまとめると「私たちはこの地で長い時間を過ごしたネイティブ・アメリカンの土地に立っているということ、そして彼らの神聖なる水や土地の権利を今も侵しているということを認めます」という内容の文章を読み上げ、20秒~1分ほど沈黙を共有する。
黙祷に近いけれど、少し性質が違う。例えば東日本大震災の被害者や原爆被害者や戦死者への黙祷は、その死を悼むのが主な目的だ。その上で自分たちの生や日常・平和などについて考え直したりする沈黙の時間だと思う。
一方でこのLand Acknowledgementは、特定のネイティブ・アメリカンの死を悼むものではない。ストレートな表現をすると、17世紀から続く侵略の歴史を認めるということだ。自分たちが侵略者であり、侵略された存在がいる、とはっきり言葉にすることで、自分たちを戒めると同時に、対外的には謝罪の意味もある。
このLand Acknowledgementをするのは進歩的(progressive)、リベラル的とされる。侵略者側はわざわざ口にしなくていいことだからだ。のび太が自分の身を守るために「僕はいじめられっ子だ」と言うことはあっても、ジャイアンが「俺はいじめっ子だ」なんて言わなくていい。わざわざ「私たちは侵略者です」と言うのは、この国で抑圧されてきたネイティブ・アメリカンの権利も含めて平等な世界を理想にしているという意思の表明でもある。そういう意味で、普段触れられずに忘れ去られている歴史と人々についてあえて言及するというのは意義深いことだと思う。
しかし、"We make this acknowledgement aware of continual violations of water, territorial rights, and sacred sites in the Wabanaki homeland"という文言をしっかり考えたい。黙祷との一番の違いは、フォーカスが過去にあるか、過去と現在の両方にあるかという点だ。「私たちは侵略者であり、今も継続的に侵略が続いているというを認めます。(それでもネイティブ・アメリカンから奪ったこの土地に居座ります。)」というのは、侵略者という立場を能動的に選択をしているということだ。そんなことならむしろLand Acknowledgementなんかしない方がマシなんじゃないかというくらい、皮肉のようにも聞こえる。
「なんだ、みんなエセ平等主義の偽善者じゃないか」と済ませることもできるけれど、僕にとっては他人事で終わる話ではない。僕はネイティブ・アメリカンでもアメリカ人でもない。将来アメリカ人になる予定も今のところはない。でも、僕が過ごしている大学の土地は、17世紀にヨーロッパ人が奪い取った土地だ。そこで暮らしている以上、望むと望まざるに関わらず、自分も暴力を振るう側に立つということになる。
どうしたらいいのだろう。自分がこの土地を去ったところで問題が解決するわけじゃない。一方で残酷な歴史を、今も続く苦しみをなかったことにはしたくない。だから、せめてとの思いで僕達はLand Acknowledgementをする。自分達の立場を今一度確認するための戒めとして。まだ遠い平等な世界に少しでも近づくための誓いとして。
BUMP OF CHICKENのカルマという曲に、「ガラス玉ひとつ 落とされた 落ちた時 何かはじき出した 奪い取った場所で 光を浴びた」という歌詞がある。アメリカの土地で過ごすということは「誰かを違う場所に追いやって、自分が生きる場所を確保している」という残酷な現実を受け入れることでもある。
僕達は矛盾を抱えながら生きている。しっかりと矛盾を見つめながら、一歩一歩進んでいきたい。
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