青年はまだ乳房を知らない
「このアッパっこめら〜。店の商品に手ェ出すんじゃねぇ〜!」
怒り狂ったお袋の声。俺は全力で店からダッシュした。ヨントリーホワイトの瓶をズボンのポケットに深くねじ込んで、そのまま集合場所の伊夜比古神社に向かう。同じクラスのザリとゲーが待っていた。すでにヤニくさい。
「吸い殻、拾ったな」
俺は念を押す。伊夜比古神社は中学の同級生、弥生の実家だ。俺の家が酒屋で神事のごとに伊夜比古神社にお神酒を配達にいく、いわばお得意様だ。
「またぁジンちゃん、弥生姫にいい格好してぇ」
ザリがクネクネと腰を動かす。ザリは細身で背も高くない。ザリ、というあだ名はザリガニを捕ってきて理科室で茹でて食ったことからついた。
「行こうぜ」
俺はザリに答えずさっさと動いた。俺たちはゲーの家に向かった。ザリとゲーはママチャリ、俺は走ってついていったが、田んぼ道に出てからはゲーの後ろに乗った。自称S高一髭面のゲーは、意外とガタイがいい。田んぼは垂れかけた穂が右も左も色づき風になびく。その間を二人乗りで疾走する。ふと見るとゲーの肩にザリの手がかかっている。
「ヒャッホー! 」
ザリがもう片方の手を高々と広げる。
「つばめがえし〜」
「このクソバカあ〜!」
ゲーは口汚く罵りながら、真剣にペダルを漕ぐ。ヤベェ、マジやべぇ。俺は突然、笑いの発作に取りつかれる。脳みそなんか全部こぼれてなくなってしまえ!
幸い耕運機とはすれ違わなかった。ゲーはゼエゼエ息を切らしながら自転車を前庭に乗り入れた。
「お疲れ様」と涼しい顔でザリが続く。俺は一足先に飛び降りて、ゲーの家の玄関に向かった。
「お邪魔しま〜す!」
ガラガラと引き戸を開けて、豪快に挨拶する。どうせ誰もいない。稲刈りシーズン間近の農家はこんなもんだ。勝手知ったる台所からコップを二階へ運ぶ。足でドアを蹴って開けると、ゲーの部屋だ。ザリがチータラを持ってくる。この部屋の主人であるゲーは、最後にコーラと氷を入れた丼を持ってきた。ゲーが氷をコップに入れた。俺は体温でぬくもったヨントリーホワイトをうやうやしく両手でかざした。おお、琥珀の色。それぞれ1センチほどグラスに注ぐと、氷がギョロリと溶けた。
「それにつけてもカールのお股で温もったホワイト🎵」
ザリが妙なメロディをつけて歌う。
「カールって呼ぶな! 俺はカオルだ」
「う、うまい」ゲーはすでにグラスに口をつけている。
「待った、まっタァ」俺はコーラを注ぐ。帰ったらお袋のしばきが待っている。その危険を犯してまで手に入れたウィスキー。コークハイってどんな味だというゲーの疑問に答えるべく一肌脱いでやったんだ。俺たちは乾杯し、グラスをあおる。
「こ、これが、コークハイ!」ゲーがつぶやく。にっげ〜というザリの声が響く中、俺は格好つけてグラスを飲み干した。俺たちは二杯目を作る。うまいから飲むんじゃない。飲むからうまい。遅れて二杯目を空けたザリがしなだれかかってきた。
「カ〜ルちゃんさ、弥生姫が好きなんでしょ。弥生姫の胸って見たことある?」
俺は身をよじってザリを交わす。
「乳房見た〜い!」いきなりザリが宣言した。ゲーがエロい雑誌を出してくる。「そんなんじゃないのよね〜、カールちゃんの見たいのは」ザリはしつこい。俺はムリクリ紙面上のおっぱいをグリグリする。弥生の胸なら見たことがある。ただし小学生のぺちゃんこの胸を「乳房」と呼べるなら。
「俺は本物の乳が触りたい」とゲーが宣言する。「あたしンちくる」とザリが言う。酪農をしているザリのうちには牝牛がいる。「そんなんじゃねえ」とゲーが吠える。俺はふと、じいちゃんから聞いた話を思い出した。ちょうど稲刈りの頃、裏山のミツマタ林に行くと、「乳房」を知らない青年に「乳房」を見せてくれる虫がいるんだと言う。いつの間にかホワイトの瓶も空っぽだ。俺たちは勢いに任せて靴を履き、裏山へと向かう。山菜採りの時期以外は子どもしか立ち入らないチンケな山だ。なんだか地面がグラグラする。笑い続けるザリとむっつりした表情のゲー。俺らは通い慣れた道を外れていつもは行かない谷川に向かった。じいちゃんが話してくれた通り、ミツマタの林が延々と続いている。ゲーが呻いた。そのまま地面にしゃがんで吐き始める。空がグワングワンと揺れる。ザリの声が響く。なにぃこのお面。俺は顔を木に近づける。枝にびっしりと張り付いているのは、白に赤と黒で隈取をした歌舞伎役者の顔のような虫の群れだった。気がつくと、すでに林は薄暗い。じいちゃんが言っていたことを思い出した。夕暮れに林にいちゃあいけん。そいつらの鳴き声を聞かんほうがええ。だがもう遅い。俺らの前でその虫はゆっくりと蠢き、世にも奇妙な音を立てた。耳ではなく、頭に直接響く。俺はもうお尻の骨がざわついて止まらなくなり、尾根に駆け上がると心の底から吠えた。
「ファッ●してえ!」その途端。世界が消えた。俺は踊っていた。いやザリも、ゲロで口元を汚したゲーも。俺たちを操っていた糸のようなものが切れて、完全な自由という感覚を味わっていた。どれくらい続いたのかわからない。気がつくと、俺たちは駐在所のお周りの照らすまばゆい光の中にいた。
「やめれ! やめねっと撃つっけね!」
俺たちはそのまま「ハコ」に収容された。俺たちは泥のように眠り、翌朝これ以上ないほど渋い顔をしたそれぞれの親に引き取られた。
一週間の「謹慎」が溶ける前の晩に俺はじいちゃんにあの虫のことを話した。
「よかったなあ〜」とじいちゃんは開口一番言った。
「おめぇ、命取られんで何よりだった。あんれはオッソロシイ虫だっけな。踊り続けてそのまんま、あの世さいっちまうこともあるんらっけ」
「だって、じっちゃん、乳房を見せてくれる虫だっていったじゃないか」
「オレァそんなことは言ってね」とジッちゃんは真面目な顔で言った。
「あの虫はな……すんぶさすらず、つうんだ」
*「ヤオヨロズ」に続く「乞音目アゲノマキ科」の物語
オリジナルタイトルは「渋さ知らズの夜」
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