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蝶乙女の舞

 蝶乙女は若くも美しくもなかった。
 蝶という言葉は小さく軽い生き物を連想させるが、彼女は山のように大きい女だった。足は小さかったが、華奢というのではなく、小さくねじくれていて、古の王国の纏足を思い出させた。
 その足で彼女は飛んだ。巨体は跳ね、震え、腿や腰の肉を揺らした。胸はヘソのあたりまで垂れ下がり、彼女が跳ねるたびにホトホトと腹の肉を打った。膝裏にまとわりつく青い地虫たちすら揺れた。彼女よりなお古い舞台は、耐えかねるようにギシギシ鳴った。

 蝶乙女の両肩には「羽」があり、それゆえに彼女は「蝶乙女」と呼ばれた。正確には羽でなくただの肉襞で、生まれた時から彼女の一部だった。それはまだ、人間の身体が崩れ始めて間もない頃で、余裕のある家庭の親たちは赤子たちに「切除」や「移植」を施し、彼らが本来のものであると信じる形を保とうと試みていた。
 蝶乙女の母は、自宅の風呂場で彼女を産み落とした。無知だが本能に導かれていた女は、精一杯清潔に保った浴槽を汚さないように、ゲロを床に撒いた。最後の呻きとともに肉塊が滑り出ると、彼女はしばし気を失い、赤子の泣き声で目を覚ました。麻ひもでへその緒を縛り、煮沸したハサミで切った。ぬるりとした大きな胎盤を半分は食べ、半分は庭に埋めた。女の母もそうしたと聞かされていたから。
 赤子は生き延びた。裕福な家の掃除婦として働く女の背にくくりつけられて育った。赤子の背に生えている羽の存在を初めて口にしたのは、その家の子どもだった。夏の暑い日で、子どもはむつき以外何も身につけず、女の背にくくられていた。玄関に置かれた大きな壺をかがんで掃除していた時、子どもは女に向かい、恐れもせず口にした。
「その子、天使になるの?」
 女は一瞬手を止めて、綺麗な服を着た幸福そうな子どもの問いに首を振ることで答えた。仕事中に余計な口を聞くことを主人は喜ばない。ましてや、聖なるものを冒涜するような口をきけば、職を失う恐れさえあった。母親の呼ぶ声がし、子どもは駆けていった。羽こそなかったものの、天使そのもののような子どもの無邪気な問いは、女の心にざわめきを残した。その夜、タライで赤子をぬぐいながら女はあらためて赤子の肉襞に目をやった。
 天使とは到底思えない。けれど羽を持つ生き物は他にもいた。その晩から女は赤子を「ちょうちょ」と呼んだ。それまで赤子には名前がなかった。
 街の工場からは毒の煙が出されていたが、まだ主人の家のある郊外では蝶々を見ることはできた。薄汚れた羽でヨタヨタと飛ぶ小さな生き物の名は、寄る辺ない赤子にふさわしいと思えた。

 やがて「ちょうちょ」が、股の間から血を流し始めた頃、女は死んだ。屋敷の中に溜まった毒を掃除し続け、その毒を吸って。死体は膨れ上がり、嫌な匂いがした。「掃除屋」が来て、それを片付けた。葬式を出せる家はほんの一握り。あとはどこに捨てられるやら、燃やされるやら。
 女の乳を吸って「ちょうちょ」は大きくなった。ろくなものも食べていないのに、腰や胸は膨らんで男を誘った。街灯に立ちゃ稼げるぜ、と部屋の貸主はいい、「ちょうちょ」の服を脱がせたが、両の背にある肉襞に気づき、慌てて手を離した。肉襞も成長し、背中の半分を覆っていた。男はそのまま「ちょうちょ」を追い出すと、十字を切った。
 「ちょうちょ」は路上に立つとはどんなことかわからなかったので、街角に立ってみた。「ちょうちょ」の手足は細く、肉付きは厚く、生まれた時から一度も切ったことがない髪は腰まで届いた。街は近頃いつも薄曇り。通りをゆく人の足取りも重い。
 夕暮れの街角に所在なく立つ「ちょうちょ」の耳に、聞いたことのない音が響く。一度しか舐めたことのないドロップのような音だ。「ちょうちょ」の足はそれに合わせ、我知らずステップを踏む。腰が揺れ、胸が揺れ、長い髪が揺れる。背中では肉襞がハタハタと空を打つ。ドロップ味の音は高く低く「ちょうちょ」の身体を貫く。腰がねっとりと熱い。気がつくと「ちょうちょ」の周りには人が集まり、両の手を打ち鳴らしていた。それが拍手というものだと「ちょうちょ」は」知らない。ヒュ~ッという鋭い音とともに、若い男が現れ「ちょうちょ」の手を握る。あの音を出していた若者だと「ちょうちょ」は悟る。
「キミの踊り、素晴らしかった」と若者は言った。

 その日以来、「ちょうちょ」は舞台に立つことになった。舞台といっても工場地帯に立つ小さな小屋で、口笛の主(「ちょうちょ」はそれが口笛だと初めて知った)マルセルが「ちょうちょ」を支配人に紹介した。支配人は「ちょうちょ」の踊りと身体をじっくり検分すると言った。
「お前は今日から『蝶乙女』だ。お前の踊りはイケるぜ。その汚ったない肉襞もご愛嬌だな」
 マルセルは「蝶乙女」を自分の部屋に連れて行った。マルセルは「蝶乙女」の乳房と同じくらい、肉襞を愛した。前から愛し合い、後ろから愛しあう。マルセルの口は器用で繊細で、「蝶乙女」は声の出し方を教わり、二人は音と声を合わせた。舞台ではマルセルの口笛をバックに踊った。

 幸せは長くは続かない。ある晩、舞台が終わった後、支配人に呼ばれた部屋で、身なりの良い見知らぬ男が待っていた。支配人は二人を残し、部屋を出ると鍵をかけた。舞台の上客で、スポンサーでもある男の趣味は崩れた身体を愛でること。場末の舞台でしか得られない快楽を求める金持ちの道楽は「蝶乙女」の身体と心を傷つけた。
「バケモノめ」と男は罵りながら、厚い腰の奥の襞に精を放った。夜遅く戻ると、部屋は煙で一杯だった。繊細なマルセルは恋人に起こった事実に耐えられず、毒のタバコを吸い朦朧としていた。マルセルの口から出る声は潰れ、自分と「蝶乙女」の両方を罵った。「蝶乙女」は涙も出なかった。次に目を覚ました時、マルセルの姿はなかった。

 「蝶乙女」は舞台で踊り続けた。他に生きるすべを知らなかったし、踊っている時だけはマルセルのことを忘れられた。罵られながら、抱かれることにも慣れた。他に選択肢はなかった。ある日、月のものが来なくなった。「蝶乙女」は誰にも言わず、踊り続けた。腰の暑さと胸の大きさが幸いした。腹回りが増えたことを気づかれずに済んだ。
 「蝶乙女」は密かに準備を始めた。母親がどうやって自分を産み落としたか、何度も聞かされていたからだ。風呂桶を磨き、できる限り清潔な布と刃物を用意した。ある晩、鈍痛が走ったと思うと股から水が流れ、「蝶乙女」はその時が来たのを知った。風呂場天井の配管に太い綱を括り、両手で掴めるようにした。最初は四つん這いで耐えた。痛みは次第に耐え難くなり、「蝶乙女」は獣のように吠えた。風呂桶の淵に手をつき立ち上がると、両手で縄を掴んだ。赤子の重さを使い、少しでも楽に産めるように。痛みを逃し、逃し「蝶乙女」は腰を回し続けた。背中の肉襞がハタハタと自分を打った。マルセルの愛撫が蘇った。子どもが誰の子だろうとどうでもよかった。マルセルの口笛で踊っていた時の自分がすべてだった。後は煙の奥の幻に過ぎない。「蝶乙女」は唄った。マルセルが語ってくれた見たこともないクジラのように。「蝶乙女」は吠えた。山を貫いて響きを交わした古の獣のように。星が見えた。暗い中にひとつの声が、覚えているはずのない言葉が響いた。
「この子、天使になるの?」

 次の瞬間、最後のいきみと共に何かが股の中を滑り落ちていった。
「違うね」と「蝶乙女」は思った。
「私ゃ天使じゃない。蝶々だよ」
 ひと呼吸置いて、赤子が吠えた。それは凄まじく大きな声で、股の間の生き物が健康であることを示していた。「蝶乙女」は赤子を抱き上げると、その耳をつんざくような鳴き声を微笑ましく聞いた。赤子はグラマーな女の子だった。
「お前まるで」と「蝶乙女」は自分の見たことがあるわずかな生き物の中から、その名前をひねり出した。
「雀蜂のようにうるさいね」

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