女神《ピレイナイ》の夜 ―海鳥の羽にて綴る物語―
島ノ古老ノ語ル。あったこともなかったことも、あったこととして聞かねばならんぞー
風が楼酉岳の頂を捲いた時、ルサは舌打ちをし帆を畳んだ。左内の風では洞を出る時、渦に巻かれてしまう。天水はまだ甕にあるが、腰の干し魚は尽きた。五日夜前のことが遠き昔に思えた。惣魚の群れを追っていた。あとわずかで追い込めると思った時、仲間の上げる不吉な声が聞こえ、舟底に衝撃が走った。女神岩礁に乗り上げる寸前に舵を切った。舟は無事だったが、立てなおす間に右外の風に流され、仲間を見失った。八つの時、父親の舟に乗って以来、女神の背を踏んだことはない。久方の漁りでこころ急いた自分の咎だ。
税などなければ、とルサは海原を漂う中で島にかかる諚を嘆いた。王を持たぬ民であったルサの島にある日まばゆい船が来て告げた。遥か西の大陸を治める美苗王の臣下と名乗る役人は、誰一人読めぬ巻物を船上で読み上げると、島を一度も踏むことなく姿を消した。磨き上げられた舳先から、鈍く光る黒い穴が島を睥睨していた。
帆が破れなかったのは幸いだった、とルサは思った。姉が椰子の葉で編んでくれた帆には、髪が一房縫い込んである。父母は遠に海に還り、次の満月に「我が夫」を持つ姉は、ルサのことだけを一心に案じている。姉に一人前だということを見せたかった。はやる心を女神は許さず、この島に流されたのだ。
ルサは諦念と共に上を見上げた。洞の奥から明かりが滲む。縄で舟をくくりつけ、狭い隙間をよじ登るとひらけた場所に出た。遠目に人染みが見えた。ルサがただ「島」と呼んでいた住処を役人は「貝楼の差島」と名付けた。三日三晩の航海でたどり着ける海域に島はなく、ルサは差島以外を知らずに育った。他の島の暮らしは稀に流れ着いた者から聞く。戻るすべのない漂着者は島に留まり、わずかに新しい血をもたらした。だから役人が「差島」の遥か西に「之島」があると告げた時も、夢のような話だと思うばかりであった。
それではここが「之島」か。自分が残りの人生を送る。見渡せど見渡せど岩ばかりの崖が続く。平らかで耕作も盛んなルサの島とは比ぶべくもなかった。右外の風は死を運ぶ、と島の言い伝えにもある。粗末な胴衣を身につけた男が足を引きずりながら近づいてきた。言葉の響きはわかるようでわからない。手振りを交え助けを求めると、相手は呑み込んだ。スクナと名乗る白髪混じりの男について、ルサは波飛沫のけぶる崖を歩いた。
焚き火がイサオエビのように跳ねた。之島の長はルサを遠くから手招きした。長は名をハポテという恰幅の良い男だった。隣に座れと身振りで示すと、ハポテはルサの前に食べ物を運ばせた。ルサの腹が呻いた。ハポテは破顔し、食えと手で促した。海の香以外の味がした。貪りたい思いを脇に寄せ、唾液と混ぜながらゆっくりと飲み込む。キビほど甘くはないが、もっちりとしている。飢えた胃袋にはありがたい柔らかさだった。
太鼓の音が響き、場の雰囲気が変わった。ハポテは音の来し方を目を細めて見ている。顔から隠しおおせぬ狡猾さが消え、えも言われぬ温かみが宿った。暗闇に人が立っていた。両の腕に火を持つ影は場の中央に進み出ると、恐れもせず舞った。しなやかな腕から星が流れ、闇の中を龍が走った。炎の熱と舞の神来に焦がれ焦がされて、垣間見える白い面は忘我に燃えていた。その炎がルサの腰を焼いた。舞い手が声をあげてのけぞり、ふくよかな胸乳が露わになった。村人が煽る。真白き双丘は魂唄に連れ揺れに揺れ、巫女の唇から光る液が滴った。ズンという衝動が身内を貫いた。ルサは下履きを濡らす感触を初めて味わっていた。
ルサの身体は呆れるほど貪欲にすべてを吸収した。見たことのない草や魚、岩ばかりの大地、そこで生きるための技、一つ一つに戸惑っていたルサであったが、持ち前の素直さが幸いした。ルサはスクナの預かりになった。スクナは若い頃左足を痛めたため海には戻れず、諸々の雑用を引き受けている。愛想のない男であったが、ルサにはありがたかった。聞き慣れてみれば、ルサの言葉と相通じるところもある。だが、女たちとなると話は別だ。輪になり手を動かしている女たちの口から溢れる言葉は、海鳥のしゃべりとついぞ変わらない。ルサは海を恋い、男たちと漁に出たいと願った。之島で漁に出ることのできるのは大潮の日だけ、舟も差島とは違い、打ち寄せた丸太を乾かし、くり抜いたものを複数で漕ぐ。ルサの出番はなかった。子らと崖を登り下りし海鳥や卵を獲るのが、ルサに課せられた役であった。之島育ちの子らは木に取りつくアリのように崖を走り、ルサを小馬鹿にした。ルサは憤ったが、できぬものはできぬ。始めは手についたクソや、骨の折れる軽い音が嫌でたまらなかったが、卵をすすり肉を喰らい、己の身体になっていくにつれ、こだわりは解けた。その頃には子らもルサの存在を気にしなくなっていた。
ある日、海鳥数羽片手、腰の網に卵をたっぷり入れて女たちの作業場を通り過ぎた時、くすくす笑う声の中にルサは自分の名前を聞いた。振り返ると、ミホリが立ち上がるところだった。胸が雷の轟きを宿した。あの夜の舞手はハポテの娘でミホリという名であることは問わず語りに知った。ハポテに似て太り肉だが、盛り上がった胸とは裏腹に手足は細く足取りには野生のしなやかさがあった。ミホリは黒髪をなびかせ駆け寄ると、ルサの持っている海鳥を指した。ミホリの肉厚の唇がルサの名前を呼ぶ。ルサはそれだけであの夜のことが思い浮かび、どうしようもなくなる。ミホリになら何でもくれてやりたいが、獲ったものはまずスクナに、それからハポテへと収める決まりになっている。差島とは違う。手ぶりで断ろうとするルサの呼吸を縫うかのように、ミホリが一歩近づいた。ルサはビクッとして後ろに下がった。ミホリの手がさっと動いた。その手に陽の色をした海鳥の羽冠を見たとき、ルサはありえない期待をした己を恥じた。この羽冠は雄にしかなく、雌と雛を置いて漁に出ていることが多い雄はなるほど珍しい獲物だった。ルサは怒ったように陽の色の羽だけを抜くと一歩後ずさり、腕を伸ばしてミホリに渡した。近くに寄って欲しくなかった。ミホリの匂いを嗅ぎたくなかった。羽を渡す時ミホリの手が触れた。ミホリは羽の色も陰るほどにこやかに笑い、また輪に戻った。ルサが立ち去る時も、女たちはくすくす笑っていた。
頭のハゲた海鳥を見てスクナの目が揺れた。仕方なくミホリの件を話すと、表情のない男の顔に何かが浮かんだ。ルサは目で問うたが男は「新月」と答えただけだった。新月の夜のことは、今年十五になるイヒカが教えてくれた。遠い昔、月のない「女神の夜」について男たちが話す時、分かち合う秘密をルサはまだ知らない。お前も来るんだろ、というイヒカの言葉にルサはこくりと頷いた。
最後の炎が鎮まり、熾の火だけが闇夜に浮かび上がった。砂浜で踊りさざめいていた男女の群れは荒い呼吸の音だけを波のように響かせている。「あちゅいない」の晩。イヒカから「あちゅいない」の決まりを知らされた時、ルサの身体には別の生き物が宿った。「あちゅいない」の晩は「あちゅくちゅ」の晩であること。お互いが求めれば誰とあちゅくちゅしても良いこと。想い人がいる男は前もって陽色の羽を贈り、それを女が受け取ることが受け入れる証しになること。あのことはいつの間にか伝わっていたらしく、ミホリに憧れるイヒカに散々こぼされたが、ルサにとっては見当違いでしかない。自分がミホリに羽を贈ったのではなく、ミホリに奪い取られたのだ。だから闇の中でいきなり腕を掴まれ、熱く甘やかな息が間近に迫ってきた時も現実(うつつ)とは思えなかった。細い爪が腕に食い込んだ。痛みを感じる間もなく、引かれ惹かれてルサは走り出していた。前を流れる黒い髪がビシビシとルサの額を打つ。その髪に羽が挿してある。光のない世界で羽は色を失い、イヒカの声だけが頭の中で木霊する。「あ~ちゅくちゅ~」それは浜辺に打ち上げられのたうち回るオボノ。浜の外れにタコの木の林が見え、前を走っていた影がくるりと向きを変えた。勢いのついたルサはそのまま胸元に飛び込んだ。ミホリの匂いを嗅いだ時、ルサの中で何かが弾けた。ルサは「女神」に跪いた。ちゅぅくちゅぅく結び合う口元は潮に溢れ、ふにくふにく揺れる実は指にこぼれた。気がつくとルサは夜空を見上げていた。背中に砂が食い込んでいる。之島の砂は星の形をし慣れぬ者の足を時として穿つ。「女神」はルサに跨がり、夜空に踊っていた。ぎぃしぎぃしと髪が揺れる。「女神」が唄い、たくましい腰がルサを貪る。目の前が赤くなる。ルサは殺してくれと願うような背中の痛みと「女神」が与えてくれる抗えぬ愉悦に声を上げて果てた。
背中の傷はしばらく消えなかった。スクナはルサの背に海鳥の油を塗り込み、ルサが大人になったことを祝った。之島の男は女を下にしない。背の傷は女を傷つけない男の証だと。それでもルサの仏頂面を見かねて、付け加えるのを忘れなかった。今度はうまいやり方を教えてやろう。
三たび月が廻り左外の風が吹いた。差島では役人の到来を控えて島中が泡立つ頃だ。帆を操る差島の民と違い、之島の民は風の名を持たぬことにルサは気づいた。大風の季節には用心を怠らぬが、むしろ月の満ち欠けにたくさんの名前があった。ルサは洞に隠した舟のことを思った。人目をはばかり幾たびか手を入れてあるが、再び操る時が来るとは思えなくなっていた。「あちゅいない」の晩はあれから三度廻った。ミホリは必ずルサの元に来てあちゅくちゅを重ねた。ルサは教わったようにタコの木の助けを借りた。ミホリのおかげで之島の言葉にも馴染んできた。ミホリと連れ添うことは身一つのルサには見果てぬ夢だが、「あちゅいない」の晩が巡るかぎりミホリと会うことはできる。それは宇宙を月が廻るように確かなことだった。だが、昨晩の「あちゅいない」にミホリは姿を見せなかった。若さの求めるままにルサはあちゅくちゅを楽しんだが、胸に一抹の不安がきざすのは否めなかった。
その理由(わけ)をルサに教えたのはイヒカだった。
「ミホリはもう『あちゅいない』には来ない。美苗王の船に乗る」
それは、海鳥が何羽獲れたと言うのと変わりない口調で、問うまでもなく皆がそれを承知していたことがルサにはわかった。あれほどの「女神」がルサを求めたのもそのためであったか。真実は背の傷跡を疼かせた。差島より恵まれているとは思えない之島に穀物がある不思議も、ハポテに財が集まる仕組みも、すべてミホリの身体を贄としてのことだった。
この島を去ろう、とルサは胸の中で決意した。
船は今日来るか明日来るか。落ち着かない日々の中、ルサは人目を忍んで出立の準備を重ねた。海鳥の油を塗りこめた舟は少しも軋まず、わずかな帆の破れも鳥の腱で繕った。食を削り胃袋を乾かしたものに詰めた。水も同様に用意した。差と之が交わることができれば。夢が頭をかすめたが、生きて帰りつける望みのないルサには「空の巣のような」ものだ。この言い回しもミホリが教えてくれた。何をしても何を見ても思い出さないことはなく、ルサは表情を無にし、日々を耐えた。遠見の衆が船影を見た、とスクナの口に登った日、ルサは最後の見繕いのため洞に降りた。今宵「女神」の手に委ね、船出するつもりであった。通路は日に日に通りにくくなっていた。ルサの身体は育ち、厚みを増している。狭さが幸いし大人が見過ごしているこの路を通れる「今」しかない。すべてを終え、洞の奥を見上げたルサはあり得ないものを見た。カカリスのごとき素早さで降りてくるしなやかな影があった。差し込む陽のため顔は見えないが、ルサの血が、細胞が告げていた。ミホリがルサの胸に飛び込んできた。ルサは押し返し、怒声を浴びせようとした。その口が甘やかな唇で塞がれ、ルサは我を忘れた。二つの身体が溶け合うまで幾ばくもなかった。ミホリは声を漏らすまいと必死に耐え、ルサの背に再び傷を穿った。ルサは「女神」の奇跡を受け入れた。繋がったままミホリは言葉少なに告げた。ルサと行く、と。どこで漏れたのかと青ざめるルサの頭に、スクナの顔が浮かんだ。唯々諾々と従う男の中にハポテへの憤懣を嗅ぎ取ったことは一度や二度ではない。確かめる術もないし、スクナもそれを望むまい。明日の夜明け前に、とルサは告げた。左外の風があれば、ルサの舟は惣魚のように走る。いわんや「女神」の乗る舟をや!
ルサは暗い内に洞に潜んだ。闇が薄れ始めると崖の口まで登り、明けてゆく空を垣間見た。集落と洞の入り口は「チュブラ割り」と呼ばれる断崖で隔てられている。大人の背二人分くらいの幅はあろうか。不規則に吹き上げる風は海鳥をも拒み、稀に命知らずの子どもらが「チュブラ割りすっど~」とイキりたつが実際に降りた者をルサは知らない。すぐそこなのに「チュブラ割り」を廻るしか洞の入り口まで道はない。ルサの目は鳥のように彼方を見つめ、胸は疾風のようにミホリを恋うた。
遅い! 小舟の利を活かして薄闇に紛れるしか追船を逃れる術は……。
と、崖の上で何かが動いた。長い髪を振りみだす影は気の触れたカカリスの走りで「チュブラ割り」に向かっている。ルサは一切の懸念を忘れ、潜んでいた口から転がり出た。
「ミホリ~~~!」
「あそこだぁ!」
怒りに満ちた声がミホリの後に続く。荒い息で肩を揺らし、ルサを指さすハポテの巨体を越して、イヒカと子らがミホリを追い立てる。ミホリは駆けに駆けた。目がルサを射抜く。宿る炎はあの夜のごとき。ルサは「女神」の祈りを知り、ヤメロ~~~~~~、と全身で叫んだ。頭一つ抜け出したイヒカがミホリに迫る。その手が髪に触れようとした瞬間、「女神」はチュブラの崖から宙空に身を投げた。
愛し子がおずおずと促がす。それから……、それから長老様……。古老は答えず、ただ愛し子の髪をすく。妹が少し大人びた口調で呟く。……その人は崖から落ちたのよね。悲しいお終いだから長老様は話さないんでしょ。かろうじて光の残る目で、古老はなおも愛し子の髪をすく。それから丁寧に編み上げていく。明日「我が夫」を迎える娘の髪に、新しい陽の色の羽と椰子の葉で編んだ髪飾りを挿してやるために。
終